2008年10月31日金曜日

三十六

「Kはなかなか奥さんとお嬢さんの話を已《や》めませんでした。しまいには私《わたくし》も答えられないような立ち入った事まで聞くのです。私は面倒よりも不思議の感に打たれました。以前私の方から二人を問題にして話しかけた時の彼を思い出すと、私はどうしても彼の調子の変っているところに気が付かずにはいられないのです。私はとうとうなぜ今日に限ってそんな事ばかりいうのかと彼に尋ねました。その時彼は突然黙りました。しかし私は彼の結んだ口元の肉が顫《ふる》えるように動いているのを注視しました。彼は元来無口な男でした。平生《へいぜい》から何かいおうとすると、いう前によく口のあたりをもぐもぐさせる癖《くせ》がありました。彼の唇がわざと彼の意志に反抗するように容易《たやす》く開《あ》かないところに、彼の言葉の重みも籠《こも》っていたのでしょう。一旦《いったん》声が口を破って出るとなると、その声には普通の人よりも倍の強い力がありました。
 彼の口元をちょっと眺《なが》めた時、私はまた何か出て来るなとすぐ疳付《かんづ》いたのですが、それがはたして何《なん》の準備なのか、私の予覚はまるでなかったのです。だから驚いたのです。彼の重々しい口から、彼のお嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられた時の私を想像してみて下さい。私は彼の魔法棒のために一度に化石されたようなものです。口をもぐもぐさせる働きさえ、私にはなくなってしまったのです。
 その時の私は恐ろしさの塊《かたま》りといいましょうか、または苦しさの塊りといいましょうか、何しろ一つの塊りでした。石か鉄のように頭から足の先までが急に固くなったのです。呼吸をする弾力性さえ失われたくらいに堅くなったのです。幸いな事にその状態は長く続きませんでした。私は一瞬間の後《のち》に、また人間らしい気分を取り戻しました。そうして、すぐ失策《しま》ったと思いました。先《せん》を越されたなと思いました。
 しかしその先《さき》をどうしようという分別はまるで起りません。恐らく起るだけの余裕がなかったのでしょう。私は腋《わき》の下から出る気味のわるい汗が襯衣《シャツ》に滲《し》み透《とお》るのを凝《じっ》と我慢して動かずにいました。Kはその間《あいだ》いつもの通り重い口を切っては、ぽつりぽつりと自分の心を打ち明けてゆきます。私は苦しくって堪《たま》りませんでした。おそらくその苦しさは、大きな広告のように、私の顔の上に判然《はっき》りした字で貼《は》り付けられてあったろうと私は思うのです。いくらKでもそこに気の付かないはずはないのですが、彼はまた彼で、自分の事に一切《いっさい》を集中しているから、私の表情などに注意する暇がなかったのでしょう。彼の自白は最初から最後まで同じ調子で貫いていました。重くて鈍《のろ》い代りに、とても容易な事では動かせないという感じを私に与えたのです。私の心は半分その自白を聞いていながら、半分どうしようどうしようという念に絶えず掻《か》き乱されていましたから、細《こま》かい点になるとほとんど耳へ入らないと同様でしたが、それでも彼の口に出す言葉の調子だけは強く胸に響きました。そのために私は前いった苦痛ばかりでなく、ときには一種の恐ろしさを感ずるようになったのです。つまり相手は自分より強いのだという恐怖の念が萌《きざ》し始めたのです。
 Kの話が一通り済んだ時、私は何ともいう事ができませんでした。こっちも彼の前に同じ意味の自白をしたものだろうか、それとも打ち明けずにいる方が得策だろうか、私はそんな利害を考えて黙っていたのではありません。ただ何事もいえなかったのです。またいう気にもならなかったのです。
 午食《ひるめし》の時、Kと私は向い合せに席を占めました。下女《げじょ》に給仕をしてもらって、私はいつにない不味《まず》い飯《めし》を済ませました。二人は食事中もほとんど口を利《き》きませんでした。奥さんとお嬢さんはいつ帰るのだか分りませんでした。

0 件のコメント: