2008年10月31日金曜日

「とにかくたった一人取り残された私《わたくし》は、母のいい付け通り、この叔父《おじ》を頼るより外《ほか》に途《みち》はなかったのです。叔父はまた一切《いっさい》を引き受けて凡《すべ》ての世話をしてくれました。そうして私を私の希望する東京へ出られるように取り計らってくれました。
 私は東京へ来て高等学校へはいりました。その時の高等学校の生徒は今よりもよほど殺伐《さつばつ》で粗野でした。私の知ったものに、夜中《よる》職人と喧嘩《けんか》をして、相手の頭へ下駄《げた》で傷を負わせたのがありました。それが酒を飲んだ揚句《あげく》の事なので、夢中に擲《なぐ》り合いをしている間《あいだ》に、学校の制帽をとうとう向うのものに取られてしまったのです。ところがその帽子の裏には当人の名前がちゃんと、菱形《ひしがた》の白いきれの上に書いてあったのです。それで事が面倒になって、その男はもう少しで警察から学校へ照会されるところでした。しかし友達が色々と骨を折って、ついに表沙汰《おもてざた》にせずに済むようにしてやりました。こんな乱暴な行為を、上品な今の空気のなかに育ったあなた方に聞かせたら、定めて馬鹿馬鹿《ばかばか》しい感じを起すでしょう。私も実際馬鹿馬鹿しく思います。しかし彼らは今の学生にない一種|質朴《しつぼく》な点をその代りにもっていたのです。当時私の月々叔父から貰《もら》っていた金は、あなたが今、お父さんから送ってもらう学資に比べると遥《はる》かに少ないものでした。(無論物価も違いましょうが)。それでいて私は少しの不足も感じませんでした。のみならず数ある同級生のうちで、経済の点にかけては、決して人を羨《うらや》ましがる憐《あわ》れな境遇にいた訳ではないのです。今から回顧すると、むしろ人に羨ましがられる方だったのでしょう。というのは、私は月々|極《きま》った送金の外に、書籍費、(私はその時分から書物を買う事が好きでした)、および臨時の費用を、よく叔父から請求して、ずんずんそれを自分の思うように消費する事ができたのですから。
 何も知らない私は、叔父《おじ》を信じていたばかりでなく、常に感謝の心をもって、叔父をありがたいもののように尊敬していました。叔父は事業家でした。県会議員にもなりました。その関係からでもありましょう、政党にも縁故があったように記憶しています。父の実の弟ですけれども、そういう点で、性格からいうと父とはまるで違った方へ向いて発達したようにも見えます。父は先祖から譲られた遺産を大事に守って行く篤実一方《とくじついっぽう》の男でした。楽しみには、茶だの花だのをやりました。それから詩集などを読む事も好きでした。書画骨董《しょがこっとう》といった風《ふう》のものにも、多くの趣味をもっている様子でした。家は田舎《いなか》にありましたけれども、二|里《り》ばかり隔たった市《し》、――その市には叔父が住んでいたのです、――その市から時々道具屋が懸物《かけもの》だの、香炉《こうろ》だのを持って、わざわざ父に見せに来ました。父は一口《ひとくち》にいうと、まあマン・オフ・ミーンズとでも評したら好《い》いのでしょう。比較的上品な嗜好《しこう》をもった田舎紳士だったのです。だから気性《きしょう》からいうと、闊達《かったつ》な叔父とはよほどの懸隔《けんかく》がありました。それでいて二人はまた妙に仲が好かったのです。父はよく叔父を評して、自分よりも遥《はる》かに働きのある頼もしい人のようにいっていました。自分のように、親から財産を譲られたものは、どうしても固有の材幹《さいかん》が鈍《にぶ》る、つまり世の中と闘う必要がないからいけないのだともいっていました。この言葉は母も聞きました。私も聞きました。父はむしろ私の心得になるつもりで、それをいったらしく思われます。「お前もよく覚えているが好《い》い」と父はその時わざわざ私の顔を見たのです。だから私はまだそれを忘れずにいます。このくらい私の父から信用されたり、褒《ほ》められたりしていた叔父を、私がどうして疑う事ができるでしょう。私にはただでさえ誇りになるべき叔父でした。父や母が亡くなって、万事その人の世話にならなければならない私には、もう単なる誇りではなかったのです。私の存在に必要な人間になっていたのです。

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