2008年10月31日金曜日

「私は縁談の事をそれなり忘れてしまいました。私の周囲《ぐるり》を取り捲《ま》いている青年の顔を見ると、世帯染《しょたいじ》みたものは一人もいません。みんな自由です、そうして悉《ことごと》く単独らしく思われたのです。こういう気楽な人の中《うち》にも、裏面にはいり込んだら、あるいは家庭の事情に余儀なくされて、すでに妻を迎えていたものがあったかも知れませんが、子供らしい私はそこに気が付きませんでした。それからそういう特別の境遇に置かれた人の方でも、四辺《あたり》に気兼《きがね》をして、なるべくは書生に縁の遠いそんな内輪の話はしないように慎んでいたのでしょう。後《あと》から考えると、私自身がすでにその組だったのですが、私はそれさえ分らずに、ただ子供らしく愉快に修学の道を歩いて行きました。
 学年の終りに、私はまた行李《こうり》を絡《から》げて、親の墓のある田舎《いなか》へ帰って来ました。そうして去年と同じように、父母《ちちはは》のいたわが家《いえ》の中で、また叔父《おじ》夫婦とその子供の変らない顔を見ました。私は再びそこで故郷《ふるさと》の匂《にお》いを嗅《か》ぎました。その匂いは私に取って依然として懐かしいものでありました。一学年の単調を破る変化としても有難いものに違いなかったのです。
 しかしこの自分を育て上げたと同じような匂いの中で、私はまた突然結婚問題を叔父から鼻の先へ突き付けられました。叔父のいう所は、去年の勧誘を再び繰り返したのみです。理由も去年と同じでした。ただこの前|勧《すす》められた時には、何らの目的物がなかったのに、今度はちゃんと肝心《かんじん》の当人を捕《つら》まえていたので、私はなお困らせられたのです。その当人というのは叔父の娘すなわち私の従妹《いとこ》に当る女でした。その女を貰《もら》ってくれれば、お互いのために便宜である、父も存生中《ぞんしょうちゅう》そんな事を話していた、と叔父がいうのです。私もそうすれば便宜だとは思いました。父が叔父にそういう風《ふう》な話をしたというのもあり得《う》べき事と考えました。しかしそれは私が叔父にいわれて、始めて気が付いたので、いわれない前から、覚《さと》っていた事柄ではないのです。だから私は驚きました。驚いたけれども、叔父の希望に無理のないところも、それがためによく解《わか》りました。私は迂闊《うかつ》なのでしょうか。あるいはそうなのかも知れませんが、おそらくその従妹に無頓着《むとんじゃく》であったのが、おもな源因《げんいん》になっているのでしょう。私は小供《こども》のうちから市《し》にいる叔父の家《うち》へ始終遊びに行きました。ただ行くばかりでなく、よくそこに泊りました。そうしてこの従妹とはその時分から親しかったのです。あなたもご承知でしょう、兄妹《きょうだい》の間に恋の成立した例《ためし》のないのを。私はこの公認された事実を勝手に布衍《ふえん》しているかも知れないが、始終接触して親しくなり過ぎた男女《なんにょ》の間には、恋に必要な刺戟《しげき》の起る清新な感じが失われてしまうように考えています。香《こう》をかぎ得《う》るのは、香を焚《た》き出した瞬間に限るごとく、酒を味わうのは、酒を飲み始めた刹那《せつな》にあるごとく、恋の衝動にもこういう際《きわ》どい一点が、時間の上に存在しているとしか思われないのです。一度平気でそこを通り抜けたら、馴《な》れれば馴れるほど、親しみが増すだけで、恋の神経はだんだん麻痺《まひ》して来るだけです。私はどう考え直しても、この従妹《いとこ》を妻にする気にはなれませんでした。
 叔父《おじ》はもし私が主張するなら、私の卒業まで結婚を延ばしてもいいといいました。けれども善は急げという諺《ことわざ》もあるから、できるなら今のうちに祝言《しゅうげん》の盃《さかずき》だけは済ませておきたいともいいました。当人に望みのない私にはどっちにしたって同じ事です。私はまた断りました。叔父は厭《いや》な顔をしました。従妹は泣きました。私に添われないから悲しいのではありません。結婚の申し込みを拒絶されたのが、女として辛《つら》かったからです。私が従妹を愛していないごとく、従妹も私を愛していない事は、私によく知れていました。私はまた東京へ出ました。

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