2008年10月31日金曜日

四十

「ある日私は久しぶりに学校の図書館に入りました。私は広い机の片隅で窓から射す光線を半身に受けながら、新着の外国雑誌を、あちらこちらと引《ひ》っ繰《く》り返して見ていました。私は担任教師から専攻の学科に関して、次の週までにある事項を調べて来いと命ぜられたのです。しかし私に必要な事柄がなかなか見付からないので、私は二度も三度も雑誌を借り替えなければなりませんでした。最後に私はやっと自分に必要な論文を探し出して、一心にそれを読み出しました。すると突然幅の広い机の向う側から小さな声で私の名を呼ぶものがあります。私はふと眼を上げてそこに立っているKを見ました。Kはその上半身を机の上に折り曲げるようにして、彼の顔を私に近付けました。ご承知の通り図書館では他《ほか》の人の邪魔になるような大きな声で話をする訳にゆかないのですから、Kのこの所作《しょさ》は誰でもやる普通の事なのですが、私はその時に限って、一種変な心持がしました。
 Kは低い声で勉強かと聞きました。私はちょっと調べものがあるのだと答えました。それでもKはまだその顔を私から放しません。同じ低い調子でいっしょに散歩をしないかというのです。私は少し待っていればしてもいいと答えました。彼は待っているといったまま、すぐ私の前の空席に腰をおろしました。すると私は気が散って急に雑誌が読めなくなりました。何だかKの胸に一物《いちもつ》があって、談判でもしに来られたように思われて仕方がないのです。私はやむをえず読みかけた雑誌を伏せて、立ち上がろうとしました。Kは落ち付き払ってもう済んだのかと聞きます。私はどうでもいいのだと答えて、雑誌を返すと共に、Kと図書館を出ました。
 二人は別に行く所もなかったので、竜岡町《たつおかちょう》から池《いけ》の端《はた》へ出て、上野《うえの》の公園の中へ入りました。その時彼は例の事件について、突然向うから口を切りました。前後の様子を綜合《そうごう》して考えると、Kはそのために私をわざわざ散歩に引《ひ》っ張《ぱ》り出《だ》したらしいのです。けれども彼の態度はまだ実際的の方面へ向ってちっとも進んでいませんでした。彼は私に向って、ただ漠然と、どう思うというのです。どう思うというのは、そうした恋愛の淵《ふち》に陥《おちい》った彼を、どんな眼で私が眺《なが》めるかという質問なのです。一言《いちごん》でいうと、彼は現在の自分について、私の批判を求めたいようなのです。そこに私は彼の平生《へいぜい》と異なる点を確かに認める事ができたと思いました。たびたび繰り返すようですが、彼の天性は他《ひと》の思わくを憚《はば》かるほど弱くでき上ってはいなかったのです。こうと信じたら一人でどんどん進んで行くだけの度胸もあり勇気もある男なのです。養家《ようか》事件でその特色を強く胸の裏《うち》に彫《ほ》り付けられた私が、これは様子が違うと明らかに意識したのは当然の結果なのです。
 私がKに向って、この際|何《な》んで私の批評が必要なのかと尋ねた時、彼はいつもにも似ない悄然《しょうぜん》とした口調で、自分の弱い人間であるのが実際恥ずかしいといいました。そうして迷っているから自分で自分が分らなくなってしまったので、私に公平な批評を求めるより外《ほか》に仕方がないといいました。私は隙《す》かさず迷うという意味を聞き糺《ただ》しました。彼は進んでいいか退《しりぞ》いていいか、それに迷うのだと説明しました。私はすぐ一歩先へ出ました。そうして退こうと思えば退けるのかと彼に聞きました。すると彼の言葉がそこで不意に行き詰りました。彼はただ苦しいといっただけでした。実際彼の表情には苦しそうなところがありありと見えていました。もし相手がお嬢さんでなかったならば、私はどんなに彼に都合のいい返事を、その渇《かわ》き切った顔の上に慈雨《じう》の如く注《そそ》いでやったか分りません。私はそのくらいの美しい同情をもって生れて来た人間と自分ながら信じています。しかしその時の私は違っていました。

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