2008年10月31日金曜日

十七

「私が書物ばかり買うのを見て、奥さんは少し着物を拵《こしら》えろといいました。私は実際|田舎《いなか》で織った木綿《もめん》ものしかもっていなかったのです。その頃《ころ》の学生は絹《いと》の入《はい》った着物を肌に着けませんでした。私の友達に横浜《よこはま》の商人《あきんど》か何《なに》かで、宅《うち》はなかなか派出《はで》に暮しているものがありましたが、そこへある時|羽二重《はぶたえ》の胴着《どうぎ》が配達で届いた事があります。すると皆《みん》ながそれを見て笑いました。その男は恥ずかしがって色々弁解しましたが、折角《せっかく》の胴着を行李《こうり》の底へ放《ほう》り込んで利用しないのです。それをまた大勢が寄ってたかって、わざと着せました。すると運悪くその胴着に蝨《しらみ》がたかりました。友達はちょうど幸《さいわ》いとでも思ったのでしょう、評判の胴着をぐるぐると丸めて、散歩に出たついでに、根津《ねづ》の大きな泥溝《どぶ》の中へ棄《す》ててしまいました。その時いっしょに歩いていた私は、橋の上に立って笑いながら友達の所作《しょさ》を眺《なが》めていましたが、私の胸のどこにも勿体《もったい》ないという気は少しも起りませんでした。
 その頃から見ると私も大分《だいぶ》大人になっていました。けれどもまだ自分で余所行《よそゆき》の着物を拵えるというほどの分別《ふんべつ》は出なかったのです。私は卒業して髯《ひげ》を生やす時代が来なければ、服装の心配などはするに及ばないものだという変な考えをもっていたのです。それで奥さんに書物は要《い》るが着物は要らないといいました。奥さんは私の買う書物の分量を知っていました。買った本をみんな読むのかと聞くのです。私の買うものの中《うち》には字引きもありますが、当然眼を通すべきはずでありながら、頁《ページ》さえ切ってないのも多少あったのですから、私は返事に窮しました。私はどうせ要らないものを買うなら、書物でも衣服でも同じだという事に気が付きました。その上私は色々世話になるという口実の下《もと》に、お嬢さんの気に入るような帯か反物《たんもの》を買ってやりたかったのです。それで万事を奥さんに依頼しました。
 奥さんは自分一人で行くとはいいません。私にもいっしょに来いと命令するのです。お嬢さんも行かなくてはいけないというのです。今と違った空気の中に育てられた私どもは、学生の身分として、あまり若い女などといっしょに歩き廻《まわ》る習慣をもっていなかったものです。その頃の私は今よりもまだ習慣の奴隷でしたから、多少|躊躇《ちゅうちょ》しましたが、思い切って出掛けました。
 お嬢さんは大層着飾っていました。地体《じたい》が色の白いくせに、白粉《おしろい》を豊富に塗ったものだからなお目立ちます。往来の人がじろじろ見てゆくのです。そうしてお嬢さんを見たものはきっとその視線をひるがえして、私の顔を見るのだから、変なものでした。
 三人は日本橋《にほんばし》へ行って買いたいものを買いました。買う間にも色々気が変るので、思ったより暇《ひま》がかかりました。奥さんはわざわざ私の名を呼んでどうだろうと相談をするのです。時々|反物《たんもの》をお嬢さんの肩から胸へ竪《たて》に宛《あ》てておいて、私に二、三歩|遠退《とおの》いて見てくれろというのです。私はそのたびごとに、それは駄目《だめ》だとか、それはよく似合うとか、とにかく一人前の口を聞きました。
 こんな事で時間が掛《かか》って帰りは夕飯《ゆうめし》の時刻になりました。奥さんは私に対するお礼に何かご馳走《ちそう》するといって、木原店《きはらだな》という寄席《よせ》のある狭い横丁《よこちょう》へ私を連れ込みました。横丁も狭いが、飯を食わせる家《うち》も狭いものでした。この辺《へん》の地理を一向《いっこう》心得ない私は、奥さんの知識に驚いたくらいです。
 我々は夜《よ》に入《い》って家《うち》へ帰りました。その翌日《あくるひ》は日曜でしたから、私は終日|室《へや》の中《うち》に閉じ籠《こも》っていました。月曜になって、学校へ出ると、私は朝っぱらそうそう級友の一人から調戯《からか》われました。いつ妻《さい》を迎えたのかといってわざとらしく聞かれるのです。それから私の細君《さいくん》は非常に美人だといって賞《ほ》めるのです。私は三人|連《づれ》で日本橋へ出掛けたところを、その男にどこかで見られたものとみえます。

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