2008年10月31日金曜日

「私が三度目に帰国したのは、それからまた一年|経《た》った夏の取付《とっつき》でした。私はいつでも学年試験の済むのを待ちかねて東京を逃げました。私には故郷《ふるさと》がそれほど懐かしかったからです。あなたにも覚えがあるでしょう、生れた所は空気の色が違います、土地の匂《にお》いも格別です、父や母の記憶も濃《こまや》かに漂《ただよ》っています。一年のうちで、七、八の二月《ふたつき》をその中に包《くる》まれて、穴に入った蛇《へび》のように凝《じっ》としているのは、私に取って何よりも温かい好《い》い心持だったのです。
 単純な私は従妹との結婚問題について、さほど頭を痛める必要がないと思っていました。厭なものは断る、断ってさえしまえば後《あと》には何も残らない、私はこう信じていたのです。だから叔父の希望通りに意志を曲げなかったにもかかわらず、私はむしろ平気でした。過去一年の間いまだかつてそんな事に屈托《くったく》した覚えもなく、相変らずの元気で国へ帰ったのです。
 ところが帰って見ると叔父の態度が違っています。元のように好《い》い顔をして私を自分の懐《ふところ》に抱《だ》こうとしません。それでも鷹揚《おうよう》に育った私は、帰って四、五日の間は気が付かずにいました。ただ何かの機会にふと変に思い出したのです。すると妙なのは、叔父ばかりではないのです。叔母《おば》も妙なのです。従妹も妙なのです。中学校を出て、これから東京の高等商業へはいるつもりだといって、手紙でその様子を聞き合せたりした叔父の男の子まで妙なのです。
 私の性分《しょうぶん》として考えずにはいられなくなりました。どうして私の心持がこう変ったのだろう。いやどうして向うがこう変ったのだろう。私は突然死んだ父や母が、鈍《にぶ》い私の眼を洗って、急に世の中が判然《はっきり》見えるようにしてくれたのではないかと疑いました。私は父や母がこの世にいなくなった後《あと》でも、いた時と同じように私を愛してくれるものと、どこか心の奥で信じていたのです。もっともその頃《ころ》でも私は決して理に暗い質《たち》ではありませんでした。しかし先祖から譲られた迷信の塊《かたま》りも、強い力で私の血の中に潜《ひそ》んでいたのです。今でも潜んでいるでしょう。
 私はたった一人山へ行って、父母の墓の前に跪《ひざまず》きました。半《なかば》は哀悼《あいとう》の意味、半は感謝の心持で跪いたのです。そうして私の未来の幸福が、この冷たい石の下に横たわる彼らの手にまだ握られてでもいるような気分で、私の運命を守るべく彼らに祈りました。あなたは笑うかもしれない。私も笑われても仕方がないと思います。しかし私はそうした人間だったのです。
 私の世界は掌《たなごころ》を翻すように変りました。もっともこれは私に取って始めての経験ではなかったのです。私が十六、七の時でしたろう、始めて世の中に美しいものがあるという事実を発見した時には、一度にはっと驚きました。何遍《なんべん》も自分の眼を疑《うたぐ》って、何遍も自分の眼を擦《こす》りました。そうして心の中《うち》でああ美しいと叫びました。十六、七といえば、男でも女でも、俗にいう色気《いろけ》の付く頃です。色気の付いた私は世の中にある美しいものの代表者として、始めて女を見る事ができたのです。今までその存在に少しも気の付かなかった異性に対して、盲目《めくら》の眼が忽《たちま》ち開《あ》いたのです。それ以来私の天地は全く新しいものとなりました。
 私が叔父《おじ》の態度に心づいたのも、全くこれと同じなんでしょう。俄然《がぜん》として心づいたのです。何の予感も準備もなく、不意に来たのです。不意に彼と彼の家族が、今までとはまるで別物のように私の眼に映ったのです。私は驚きました。そうしてこのままにしておいては、自分の行先《ゆくさき》がどうなるか分らないという気になりました。

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