2008年11月4日火曜日

(上) 先生と私 一

 私《わたくし》はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚《はば》かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執《と》っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字《かしらもじ》などはとても使う気にならない。
 私が先生と知り合いになったのは鎌倉《かまくら》である。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書《はがき》を受け取ったので、私は多少の金を工面《くめん》して、出掛ける事にした。私は金の工面に二《に》、三日《さんち》を費やした。ところが私が鎌倉に着いて三日と経《た》たないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。電報には母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。友達はかねてから国元にいる親たちに勧《すす》まない結婚を強《し》いられていた。彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた。それに肝心《かんじん》の当人が気に入らなかった。それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて東京の近くで遊んでいたのである。彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした。私にはどうしていいか分らなかった。けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼は固《もと》より帰るべきはずであった。それで彼はとうとう帰る事になった。せっかく来た私は一人取り残された。
 学校の授業が始まるにはまだ大分《だいぶ》日数《ひかず》があるので鎌倉におってもよし、帰ってもよいという境遇にいた私は、当分元の宿に留《と》まる覚悟をした。友達は中国のある資産家の息子《むすこ》で金に不自由のない男であったけれども、学校が学校なのと年が年なので、生活の程度は私とそう変りもしなかった。したがって一人《ひとり》ぼっちになった私は別に恰好《かっこう》な宿を探す面倒ももたなかったのである。
 宿は鎌倉でも辺鄙《へんぴ》な方角にあった。玉突《たまつ》きだのアイスクリームだのというハイカラなものには長い畷《なわて》を一つ越さなければ手が届かなかった。車で行っても二十銭は取られた。けれども個人の別荘はそこここにいくつでも建てられていた。それに海へはごく近いので海水浴をやるには至極便利な地位を占めていた。
 私は毎日海へはいりに出掛けた。古い燻《くす》ぶり返った藁葺《わらぶき》の間《あいだ》を通り抜けて磯《いそ》へ下りると、この辺《へん》にこれほどの都会人種が住んでいるかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動いていた。ある時は海の中が銭湯《せんとう》のように黒い頭でごちゃごちゃしている事もあった。その中に知った人を一人ももたない私も、こういう賑《にぎ》やかな景色の中に裹《つつ》まれて、砂の上に寝《ね》そべってみたり、膝頭《ひざがしら》を波に打たしてそこいらを跳《は》ね廻《まわ》るのは愉快であった。
 私は実に先生をこの雑沓《ざっとう》の間《あいだ》に見付け出したのである。その時海岸には掛茶屋《かけぢゃや》が二軒あった。私はふとした機会《はずみ》からその一軒の方に行き慣《な》れていた。長谷辺《はせへん》に大きな別荘を構えている人と違って、各自《めいめい》に専有の着換場《きがえば》を拵《こしら》えていないここいらの避暑客には、ぜひともこうした共同着換所といった風《ふう》なものが必要なのであった。彼らはここで茶を飲み、ここで休息する外《ほか》に、ここで海水着を洗濯させたり、ここで鹹《しお》はゆい身体《からだ》を清めたり、ここへ帽子や傘《かさ》を預けたりするのである。海水着を持たない私にも持物を盗まれる恐れはあったので、私は海へはいるたびにその茶屋へ一切《いっさい》を脱《ぬ》ぎ棄《す》てる事にしていた。

 私《わたくし》がその掛茶屋で先生を見た時は、先生がちょうど着物を脱いでこれから海へ入ろうとするところであった。私はその時反対に濡《ぬ》れた身体《からだ》を風に吹かして水から上がって来た。二人の間《あいだ》には目を遮《さえぎ》る幾多の黒い頭が動いていた。特別の事情のない限り、私はついに先生を見逃したかも知れなかった。それほど浜辺が混雑し、それほど私の頭が放漫《ほうまん》であったにもかかわらず、私がすぐ先生を見付け出したのは、先生が一人の西洋人を伴《つ》れていたからである。
 その西洋人の優れて白い皮膚の色が、掛茶屋へ入るや否《いな》や、すぐ私の注意を惹《ひ》いた。純粋の日本の浴衣《ゆかた》を着ていた彼は、それを床几《しょうぎ》の上にすぽりと放《ほう》り出したまま、腕組みをして海の方を向いて立っていた。彼は我々の穿《は》く猿股《さるまた》一つの外《ほか》何物も肌に着けていなかった。私にはそれが第一不思議だった。私はその二日前に由井《ゆい》が浜《はま》まで行って、砂の上にしゃがみながら、長い間西洋人の海へ入る様子を眺《なが》めていた。私の尻《しり》をおろした所は少し小高い丘の上で、そのすぐ傍《わき》がホテルの裏口になっていたので、私の凝《じっ》としている間《あいだ》に、大分《だいぶ》多くの男が塩を浴びに出て来たが、いずれも胴と腕と股《もも》は出していなかった。女は殊更《ことさら》肉を隠しがちであった。大抵は頭に護謨製《ゴムせい》の頭巾《ずきん》を被《かぶ》って、海老茶《えびちゃ》や紺《こん》や藍《あい》の色を波間に浮かしていた。そういう有様を目撃したばかりの私の眼《め》には、猿股一つで済まして皆《みん》なの前に立っているこの西洋人がいかにも珍しく見えた。
 彼はやがて自分の傍《わき》を顧みて、そこにこごんでいる日本人に、一言《ひとこと》二言《ふたこと》何《なに》かいった。その日本人は砂の上に落ちた手拭《てぬぐい》を拾い上げているところであったが、それを取り上げるや否や、すぐ頭を包んで、海の方へ歩き出した。その人がすなわち先生であった。
 私は単に好奇心のために、並んで浜辺を下りて行く二人の後姿《うしろすがた》を見守っていた。すると彼らは真直《まっすぐ》に波の中に足を踏み込んだ。そうして遠浅《とおあさ》の磯近《いそちか》くにわいわい騒いでいる多人数《たにんず》の間《あいだ》を通り抜けて、比較的広々した所へ来ると、二人とも泳ぎ出した。彼らの頭が小さく見えるまで沖の方へ向いて行った。それから引き返してまた一直線に浜辺まで戻って来た。掛茶屋へ帰ると、井戸の水も浴びずに、すぐ身体《からだ》を拭《ふ》いて着物を着て、さっさとどこへか行ってしまった。
 彼らの出て行った後《あと》、私はやはり元の床几《しょうぎ》に腰をおろして烟草《タバコ》を吹かしていた。その時私はぽかんとしながら先生の事を考えた。どうもどこかで見た事のある顔のように思われてならなかった。しかしどうしてもいつどこで会った人か想《おも》い出せずにしまった。
 その時の私は屈托《くったく》がないというよりむしろ無聊《ぶりょう》に苦しんでいた。それで翌日《あくるひ》もまた先生に会った時刻を見計らって、わざわざ掛茶屋《かけぢゃや》まで出かけてみた。すると西洋人は来ないで先生一人|麦藁帽《むぎわらぼう》を被《かぶ》ってやって来た。先生は眼鏡《めがね》をとって台の上に置いて、すぐ手拭《てぬぐい》で頭を包んで、すたすた浜を下りて行った。先生が昨日《きのう》のように騒がしい浴客《よくかく》の中を通り抜けて、一人で泳ぎ出した時、私は急にその後《あと》が追い掛けたくなった。私は浅い水を頭の上まで跳《はね》かして相当の深さの所まで来て、そこから先生を目標《めじるし》に抜手《ぬきで》を切った。すると先生は昨日と違って、一種の弧線《こせん》を描《えが》いて、妙な方向から岸の方へ帰り始めた。それで私の目的はついに達せられなかった。私が陸《おか》へ上がって雫《しずく》の垂れる手を振りながら掛茶屋に入ると、先生はもうちゃんと着物を着て入れ違いに外へ出て行った。

 私《わたくし》は次の日も同じ時刻に浜へ行って先生の顔を見た。その次の日にもまた同じ事を繰り返した。けれども物をいい掛ける機会も、挨拶《あいさつ》をする場合も、二人の間には起らなかった。その上先生の態度はむしろ非社交的であった。一定の時刻に超然として来て、また超然と帰って行った。周囲がいくら賑《にぎ》やかでも、それにはほとんど注意を払う様子が見えなかった。最初いっしょに来た西洋人はその後《ご》まるで姿を見せなかった。先生はいつでも一人であった。
 或《あ》る時先生が例の通りさっさと海から上がって来て、いつもの場所に脱《ぬ》ぎ棄《す》てた浴衣《ゆかた》を着ようとすると、どうした訳か、その浴衣に砂がいっぱい着いていた。先生はそれを落すために、後ろ向きになって、浴衣を二、三度|振《ふる》った。すると着物の下に置いてあった眼鏡が板の隙間《すきま》から下へ落ちた。先生は白絣《しろがすり》の上へ兵児帯《へこおび》を締めてから、眼鏡の失《な》くなったのに気が付いたと見えて、急にそこいらを探し始めた。私はすぐ腰掛《こしかけ》の下へ首と手を突ッ込んで眼鏡を拾い出した。先生は有難うといって、それを私の手から受け取った。
 次の日私は先生の後《あと》につづいて海へ飛び込んだ。そうして先生といっしょの方角に泳いで行った。二|丁《ちょう》ほど沖へ出ると、先生は後ろを振り返って私に話し掛けた。広い蒼《あお》い海の表面に浮いているものは、その近所に私ら二人より外《ほか》になかった。そうして強い太陽の光が、眼の届く限り水と山とを照らしていた。私は自由と歓喜に充《み》ちた筋肉を動かして海の中で躍《おど》り狂った。先生はまたぱたりと手足の運動を已《や》めて仰向けになったまま浪《なみ》の上に寝た。私もその真似《まね》をした。青空の色がぎらぎらと眼を射るように痛烈な色を私の顔に投げ付けた。「愉快ですね」と私は大きな声を出した。
 しばらくして海の中で起き上がるように姿勢を改めた先生は、「もう帰りませんか」といって私を促した。比較的強い体質をもった私は、もっと海の中で遊んでいたかった。しかし先生から誘われた時、私はすぐ「ええ帰りましょう」と快く答えた。そうして二人でまた元の路《みち》を浜辺へ引き返した。
 私はこれから先生と懇意になった。しかし先生がどこにいるかはまだ知らなかった。
 それから中《なか》二日おいてちょうど三日目の午後だったと思う。先生と掛茶屋《かけぢゃや》で出会った時、先生は突然私に向かって、「君はまだ大分《だいぶ》長くここにいるつもりですか」と聞いた。考えのない私はこういう問いに答えるだけの用意を頭の中に蓄えていなかった。それで「どうだか分りません」と答えた。しかしにやにや笑っている先生の顔を見た時、私は急に極《きま》りが悪くなった。「先生は?」と聞き返さずにはいられなかった。これが私の口を出た先生という言葉の始まりである。
 私はその晩先生の宿を尋ねた。宿といっても普通の旅館と違って、広い寺の境内《けいだい》にある別荘のような建物であった。そこに住んでいる人の先生の家族でない事も解《わか》った。私が先生先生と呼び掛けるので、先生は苦笑いをした。私はそれが年長者に対する私の口癖《くちくせ》だといって弁解した。私はこの間の西洋人の事を聞いてみた。先生は彼の風変りのところや、もう鎌倉《かまくら》にいない事や、色々の話をした末、日本人にさえあまり交際《つきあい》をもたないのに、そういう外国人と近付《ちかづ》きになったのは不思議だといったりした。私は最後に先生に向かって、どこかで先生を見たように思うけれども、どうしても思い出せないといった。若い私はその時|暗《あん》に相手も私と同じような感じを持っていはしまいかと疑った。そうして腹の中で先生の返事を予期してかかった。ところが先生はしばらく沈吟《ちんぎん》したあとで、「どうも君の顔には見覚《みおぼ》えがありませんね。人違いじゃないですか」といったので私は変に一種の失望を感じた。

 私《わたくし》は月の末に東京へ帰った。先生の避暑地を引き上げたのはそれよりずっと前であった。私は先生と別れる時に、「これから折々お宅《たく》へ伺っても宜《よ》ござんすか」と聞いた。先生は単簡《たんかん》にただ「ええいらっしゃい」といっただけであった。その時分の私は先生とよほど懇意になったつもりでいたので、先生からもう少し濃《こまや》かな言葉を予期して掛《かか》ったのである。それでこの物足りない返事が少し私の自信を傷《いた》めた。
 私はこういう事でよく先生から失望させられた。先生はそれに気が付いているようでもあり、また全く気が付かないようでもあった。私はまた軽微な失望を繰り返しながら、それがために先生から離れて行く気にはなれなかった。むしろそれとは反対で、不安に揺《うご》かされるたびに、もっと前へ進みたくなった。もっと前へ進めば、私の予期するあるものが、いつか眼の前に満足に現われて来るだろうと思った。私は若かった。けれどもすべての人間に対して、若い血がこう素直に働こうとは思わなかった。私はなぜ先生に対してだけこんな心持が起るのか解《わか》らなかった。それが先生の亡くなった今日《こんにち》になって、始めて解って来た。先生は始めから私を嫌っていたのではなかったのである。先生が私に示した時々の素気《そっけ》ない挨拶《あいさつ》や冷淡に見える動作は、私を遠ざけようとする不快の表現ではなかったのである。傷《いた》ましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づくほどの価値のないものだから止《よ》せという警告を与えたのである。他《ひと》の懐かしみに応じない先生は、他《ひと》を軽蔑《けいべつ》する前に、まず自分を軽蔑していたものとみえる。
 私は無論先生を訪ねるつもりで東京へ帰って来た。帰ってから授業の始まるまでにはまだ二週間の日数《ひかず》があるので、そのうちに一度行っておこうと思った。しかし帰って二日三日と経《た》つうちに、鎌倉《かまくら》にいた時の気分が段々薄くなって来た。そうしてその上に彩《いろど》られる大都会の空気が、記憶の復活に伴う強い刺戟《しげき》と共に、濃く私の心を染め付けた。私は往来で学生の顔を見るたびに新しい学年に対する希望と緊張とを感じた。私はしばらく先生の事を忘れた。
 授業が始まって、一カ月ばかりすると私の心に、また一種の弛《たる》みができてきた。私は何だか不足な顔をして往来を歩き始めた。物欲しそうに自分の室《へや》の中を見廻《みまわ》した。私の頭には再び先生の顔が浮いて出た。私はまた先生に会いたくなった。
 始めて先生の宅《うち》を訪ねた時、先生は留守であった。二度目に行ったのは次の日曜だと覚えている。晴れた空が身に沁《し》み込むように感ぜられる好《い》い日和《ひより》であった。その日も先生は留守であった。鎌倉にいた時、私は先生自身の口から、いつでも大抵《たいてい》宅にいるという事を聞いた。むしろ外出嫌いだという事も聞いた。二度来て二度とも会えなかった私は、その言葉を思い出して、理由《わけ》もない不満をどこかに感じた。私はすぐ玄関先を去らなかった。下女《げじょ》の顔を見て少し躊躇《ちゅうちょ》してそこに立っていた。この前名刺を取り次いだ記憶のある下女は、私を待たしておいてまた内《うち》へはいった。すると奥さんらしい人が代って出て来た。美しい奥さんであった。
 私はその人から鄭寧《ていねい》に先生の出先を教えられた。先生は例月その日になると雑司ヶ谷《ぞうしがや》の墓地にある或《あ》る仏へ花を手向《たむ》けに行く習慣なのだそうである。「たった今出たばかりで、十分になるか、ならないかでございます」と奥さんは気の毒そうにいってくれた。私は会釈《えしゃく》して外へ出た。賑《にぎや》かな町の方へ一|丁《ちょう》ほど歩くと、私も散歩がてら雑司ヶ谷へ行ってみる気になった。先生に会えるか会えないかという好奇心も動いた。それですぐ踵《きびす》を回《めぐ》らした。

 私《わたくし》は墓地の手前にある苗畠《なえばたけ》の左側からはいって、両方に楓《かえで》を植え付けた広い道を奥の方へ進んで行った。するとその端《はず》れに見える茶店《ちゃみせ》の中から先生らしい人がふいと出て来た。私はその人の眼鏡《めがね》の縁《ふち》が日に光るまで近く寄って行った。そうして出し抜けに「先生」と大きな声を掛けた。先生は突然立ち留まって私の顔を見た。
「どうして……、どうして……」
 先生は同じ言葉を二|遍《へん》繰り返した。その言葉は森閑《しんかん》とした昼の中《うち》に異様な調子をもって繰り返された。私は急に何とも応《こた》えられなくなった。
「私の後《あと》を跟《つ》けて来たのですか。どうして……」
 先生の態度はむしろ落ち付いていた。声はむしろ沈んでいた。けれどもその表情の中《うち》には判然《はっきり》いえないような一種の曇りがあった。
 私は私がどうしてここへ来たかを先生に話した。
「誰《だれ》の墓へ参りに行ったか、妻《さい》がその人の名をいいましたか」
「いいえ、そんな事は何もおっしゃいません」
「そうですか。――そう、それはいうはずがありませんね、始めて会ったあなたに。いう必要がないんだから」
 先生はようやく得心《とくしん》したらしい様子であった。しかし私にはその意味がまるで解《わか》らなかった。
 先生と私は通りへ出ようとして墓の間を抜けた。依撒伯拉何々《イサベラなになに》の墓だの、神僕《しんぼく》ロギンの墓だのという傍《かたわら》に、一切衆生悉有仏生《いっさいしゅじょうしつうぶっしょう》と書いた塔婆《とうば》などが建ててあった。全権公使何々というのもあった。私は安得烈と彫《ほ》り付けた小さい墓の前で、「これは何と読むんでしょう」と先生に聞いた。「アンドレとでも読ませるつもりでしょうね」といって先生は苦笑した。
 先生はこれらの墓標が現わす人種々《ひとさまざま》の様式に対して、私ほどに滑稽《こっけい》もアイロニーも認めてないらしかった。私が丸い墓石《はかいし》だの細長い御影《みかげ》の碑《ひ》だのを指して、しきりにかれこれいいたがるのを、始めのうちは黙って聞いていたが、しまいに「あなたは死という事実をまだ真面目《まじめ》に考えた事がありませんね」といった。私は黙った。先生もそれぎり何ともいわなくなった。
 墓地の区切り目に、大きな銀杏《いちょう》が一本空を隠すように立っていた。その下へ来た時、先生は高い梢《こずえ》を見上げて、「もう少しすると、綺麗《きれい》ですよ。この木がすっかり黄葉《こうよう》して、ここいらの地面は金色《きんいろ》の落葉で埋《うず》まるようになります」といった。先生は月に一度ずつは必ずこの木の下を通るのであった。
 向うの方で凸凹《でこぼこ》の地面をならして新墓地を作っている男が、鍬《くわ》の手を休めて私たちを見ていた。私たちはそこから左へ切れてすぐ街道へ出た。
 これからどこへ行くという目的《あて》のない私は、ただ先生の歩く方へ歩いて行った。先生はいつもより口数を利《き》かなかった。それでも私はさほどの窮屈を感じなかったので、ぶらぶらいっしょに歩いて行った。
「すぐお宅《たく》へお帰りですか」
「ええ別に寄る所もありませんから」
 二人はまた黙って南の方へ坂を下りた。
「先生のお宅の墓地はあすこにあるんですか」と私がまた口を利き出した。
「いいえ」
「どなたのお墓があるんですか。――ご親類のお墓ですか」
「いいえ」
 先生はこれ以外に何も答えなかった。私もその話はそれぎりにして切り上げた。すると一|町《ちょう》ほど歩いた後《あと》で、先生が不意にそこへ戻って来た。
「あすこには私の友達の墓があるんです」
「お友達のお墓へ毎月《まいげつ》お参りをなさるんですか」
「そうです」
 先生はその日これ以外を語らなかった。

 私はそれから時々先生を訪問するようになった。行くたびに先生は在宅であった。先生に会う度数《どすう》が重なるにつれて、私はますます繁《しげ》く先生の玄関へ足を運んだ。
 けれども先生の私に対する態度は初めて挨拶《あいさつ》をした時も、懇意になったその後《のち》も、あまり変りはなかった。先生は何時《いつ》も静かであった。ある時は静か過ぎて淋《さび》しいくらいであった。私は最初から先生には近づきがたい不思議があるように思っていた。それでいて、どうしても近づかなければいられないという感じが、どこかに強く働いた。こういう感じを先生に対してもっていたものは、多くの人のうちであるいは私だけかも知れない。しかしその私だけにはこの直感が後《のち》になって事実の上に証拠立てられたのだから、私は若々しいといわれても、馬鹿《ばか》げていると笑われても、それを見越した自分の直覚をとにかく頼もしくまた嬉《うれ》しく思っている。人間を愛し得《う》る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐《ふところ》に入《い》ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人、――これが先生であった。
 今いった通り先生は始終静かであった。落ち付いていた。けれども時として変な曇りがその顔を横切る事があった。窓に黒い鳥影が射《さ》すように。射すかと思うと、すぐ消えるには消えたが。私が始めてその曇りを先生の眉間《みけん》に認めたのは、雑司ヶ谷《ぞうしがや》の墓地で、不意に先生を呼び掛けた時であった。私はその異様の瞬間に、今まで快く流れていた心臓の潮流をちょっと鈍らせた。しかしそれは単に一時の結滞《けったい》に過ぎなかった。私の心は五分と経《た》たないうちに平素の弾力を回復した。私はそれぎり暗そうなこの雲の影を忘れてしまった。ゆくりなくまたそれを思い出させられたのは、小春《こはる》の尽きるに間《ま》のない或《あ》る晩の事であった。
 先生と話していた私は、ふと先生がわざわざ注意してくれた銀杏《いちょう》の大樹《たいじゅ》を眼《め》の前に想《おも》い浮かべた。勘定してみると、先生が毎月例《まいげつれい》として墓参に行く日が、それからちょうど三日目に当っていた。その三日目は私の課業が午《ひる》で終《お》える楽な日であった。私は先生に向かってこういった。
「先生|雑司ヶ谷《ぞうしがや》の銀杏はもう散ってしまったでしょうか」
「まだ空坊主《からぼうず》にはならないでしょう」
 先生はそう答えながら私の顔を見守った。そうしてそこからしばし眼を離さなかった。私はすぐいった。
「今度お墓参《はかまい》りにいらっしゃる時にお伴《とも》をしても宜《よ》ござんすか。私は先生といっしょにあすこいらが散歩してみたい」
「私は墓参りに行くんで、散歩に行くんじゃないですよ」
「しかしついでに散歩をなすったらちょうど好《い》いじゃありませんか」
 先生は何とも答えなかった。しばらくしてから、「私のは本当の墓参りだけなんだから」といって、どこまでも墓参《ぼさん》と散歩を切り離そうとする風《ふう》に見えた。私と行きたくない口実だか何だか、私にはその時の先生が、いかにも子供らしくて変に思われた。私はなおと先へ出る気になった。
「じゃお墓参りでも好《い》いからいっしょに伴《つ》れて行って下さい。私もお墓参りをしますから」
 実際私には墓参と散歩との区別がほとんど無意味のように思われたのである。すると先生の眉《まゆ》がちょっと曇った。眼のうちにも異様の光が出た。それは迷惑とも嫌悪《けんお》とも畏怖《いふ》とも片付けられない微《かす》かな不安らしいものであった。私は忽《たちま》ち雑司ヶ谷で「先生」と呼び掛けた時の記憶を強く思い起した。二つの表情は全く同じだったのである。
「私は」と先生がいった。「私はあなたに話す事のできないある理由があって、他《ひと》といっしょにあすこへ墓参りには行きたくないのです。自分の妻《さい》さえまだ伴れて行った事がないのです」

 私《わたくし》は不思議に思った。しかし私は先生を研究する気でその宅《うち》へ出入《でい》りをするのではなかった。私はただそのままにして打ち過ぎた。今考えるとその時の私の態度は、私の生活のうちでむしろ尊《たっと》むべきものの一つであった。私は全くそのために先生と人間らしい温かい交際《つきあい》ができたのだと思う。もし私の好奇心が幾分でも先生の心に向かって、研究的に働き掛けたなら、二人の間を繋《つな》ぐ同情の糸は、何の容赦もなくその時ふつりと切れてしまったろう。若い私は全く自分の態度を自覚していなかった。それだから尊《たっと》いのかも知れないが、もし間違えて裏へ出たとしたら、どんな結果が二人の仲に落ちて来たろう。私は想像してもぞっとする。先生はそれでなくても、冷たい眼《まなこ》で研究されるのを絶えず恐れていたのである。
 私は月に二度もしくは三度ずつ必ず先生の宅《うち》へ行くようになった。私の足が段々|繁《しげ》くなった時のある日、先生は突然私に向かって聞いた。
「あなたは何でそうたびたび私のようなものの宅へやって来るのですか」
「何でといって、そんな特別な意味はありません。――しかしお邪魔《じゃま》なんですか」
「邪魔だとはいいません」
 なるほど迷惑という様子は、先生のどこにも見えなかった。私は先生の交際の範囲の極《きわ》めて狭い事を知っていた。先生の元の同級生などで、その頃《ころ》東京にいるものはほとんど二人か三人しかないという事も知っていた。先生と同郷の学生などには時たま座敷で同座する場合もあったが、彼らのいずれもは皆《みん》な私ほど先生に親しみをもっていないように見受けられた。
「私は淋《さび》しい人間です」と先生がいった。「だからあなたの来て下さる事を喜んでいます。だからなぜそうたびたび来るのかといって聞いたのです」
「そりゃまたなぜです」
 私がこう聞き返した時、先生は何とも答えなかった。ただ私の顔を見て「あなたは幾歳《いくつ》ですか」といった。
 この問答は私にとってすこぶる不得要領《ふとくようりょう》のものであったが、私はその時|底《そこ》まで押さずに帰ってしまった。しかもそれから四日と経《た》たないうちにまた先生を訪問した。先生は座敷へ出るや否《いな》や笑い出した。
「また来ましたね」といった。
「ええ来ました」といって自分も笑った。
 私は外《ほか》の人からこういわれたらきっと癪《しゃく》に触《さわ》ったろうと思う。しかし先生にこういわれた時は、まるで反対であった。癪に触らないばかりでなくかえって愉快だった。
「私は淋《さび》しい人間です」と先生はその晩またこの間の言葉を繰り返した。「私は淋しい人間ですが、ことによるとあなたも淋しい人間じゃないですか。私は淋しくっても年を取っているから、動かずにいられるが、若いあなたはそうは行かないのでしょう。動けるだけ動きたいのでしょう。動いて何かに打《ぶ》つかりたいのでしょう……」
「私はちっとも淋《さむ》しくはありません」
「若いうちほど淋《さむ》しいものはありません。そんならなぜあなたはそうたびたび私の宅《うち》へ来るのですか」
 ここでもこの間の言葉がまた先生の口から繰り返された。
「あなたは私に会ってもおそらくまだ淋《さび》しい気がどこかでしているでしょう。私にはあなたのためにその淋しさを根元《ねもと》から引き抜いて上げるだけの力がないんだから。あなたは外《ほか》の方を向いて今に手を広げなければならなくなります。今に私の宅の方へは足が向かなくなります」
 先生はこういって淋しい笑い方をした。