2008年10月31日金曜日

「私が夏休みを利用して始めて国へ帰った時、両親の死に断えた私の住居《すまい》には、新しい主人として、叔父夫婦が入れ代って住んでいました。これは私が東京へ出る前からの約束でした。たった一人取り残された私が家にいない以上、そうでもするより外《ほか》に仕方がなかったのです。
 叔父はその頃《ころ》市にある色々な会社に関係していたようです。業務の都合からいえば、今までの居宅《きょたく》に寝起《ねお》きする方が、二|里《り》も隔《へだた》った私の家に移るより遥かに便利だといって笑いました。これは私の父母が亡くなった後《あと》、どう邸《やしき》を始末して、私が東京へ出るかという相談の時、叔父の口を洩《も》れた言葉であります。私の家は旧《ふる》い歴史をもっているので、少しはその界隈《かいわい》で人に知られていました。あなたの郷里でも同じ事だろうと思いますが、田舎では由緒《ゆいしょ》のある家を、相続人があるのに壊《こわ》したり売ったりするのは大事件です。今の私ならそのくらいの事は何とも思いませんが、その頃はまだ子供でしたから、東京へは出たし、家《うち》はそのままにして置かなければならず、はなはだ所置《しょち》に苦しんだのです。
 叔父《おじ》は仕方なしに私の空家《あきや》へはいる事を承諾してくれました。しかし市《し》の方にある住居《すまい》もそのままにしておいて、両方の間を往《い》ったり来たりする便宜を与えてもらわなければ困るといいました。私に固《もと》より[#「私に固《もと》より」は底本では「私は固《もと》より」]異議のありようはずがありません。私はどんな条件でも東京へ出られれば好《い》いくらいに考えていたのです。
 子供らしい私は、故郷《ふるさと》を離れても、まだ心の眼で、懐かしげに故郷の家を望んでいました。固よりそこにはまだ自分の帰るべき家があるという旅人《たびびと》の心で望んでいたのです。休みが来れば帰らなくてはならないという気分は、いくら東京を恋しがって出て来た私にも、力強くあったのです。私は熱心に勉強し、愉快に遊んだ後《あと》、休みには帰れると思うその故郷の家をよく夢に見ました。
 私の留守の間、叔父はどんな風《ふう》に両方の間を往《ゆ》き来していたか知りません。私の着いた時は、家族のものが、みんな一《ひと》つ家《いえ》の内に集まっていました。学校へ出る子供などは平生《へいぜい》おそらく市の方にいたのでしょうが、これも休暇のために田舎《いなか》へ遊び半分といった格《かく》で引き取られていました。
 みんな私の顔を見て喜びました。私はまた父や母のいた時より、かえって賑《にぎ》やかで陽気になった家の様子を見て嬉《うれ》しがりました。叔父はもと私の部屋になっていた一間《ひとま》を占領している一番目の男の子を追い出して、私をそこへ入れました。座敷の数《かず》も少なくないのだから、私はほかの部屋で構わないと辞退したのですけれども、叔父はお前の宅《うち》だからといって、聞きませんでした。
 私は折々亡くなった父や母の事を思い出す外《ほか》に、何の不愉快もなく、その一夏《ひとなつ》を叔父の家族と共に過ごして、また東京へ帰ったのです。ただ一つその夏の出来事として、私の心にむしろ薄暗い影を投げたのは、叔父夫婦が口を揃《そろ》えて、まだ高等学校へ入ったばかりの私に結婚を勧める事でした。それは前後で丁度三、四回も繰り返されたでしょう。私も始めはただその突然なのに驚いただけでした。二度目には判然《はっきり》断りました。三度目にはこっちからとうとうその理由を反問しなければならなくなりました。彼らの主意は単簡《たんかん》でした。早く嫁《よめ》を貰《もら》ってここの家へ帰って来て、亡くなった父の後を相続しろというだけなのです。家は休暇《やすみ》になって帰りさえすれば、それでいいものと私は考えていました。父の後を相続する、それには嫁が必要だから貰《もら》う、両方とも理屈としては一通《ひととお》り聞こえます。ことに田舎の事情を知っている私には、よく解《わか》ります。私も絶対にそれを嫌ってはいなかったのでしょう。しかし東京へ修業に出たばかりの私には、それが遠眼鏡《とおめがね》で物を見るように、遥《はる》か先の距離に望まれるだけでした。私は叔父の希望に承諾を与えないで、ついにまた私の家を去りました。

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