2008年11月4日火曜日

二十一

 冬が来た時、私《わたくし》は偶然国へ帰らなければならない事になった。私の母から受け取った手紙の中に、父の病気の経過が面白くない様子を書いて、今が今という心配もあるまいが、年が年だから、できるなら都合して帰って来てくれと頼むように付け足してあった。
 父はかねてから腎臓《じんぞう》を病んでいた。中年以後の人にしばしば見る通り、父のこの病《やまい》は慢性であった。その代り要心さえしていれば急変のないものと当人も家族のものも信じて疑わなかった。現に父は養生のお蔭《かげ》一つで、今日《こんにち》までどうかこうか凌《しの》いで来たように客が来ると吹聴《ふいちょう》していた。その父が、母の書信によると、庭へ出て何かしている機《はずみ》に突然|眩暈《めまい》がして引ッ繰り返った。家内《かない》のものは軽症の脳溢血《のういっけつ》と思い違えて、すぐその手当をした。後《あと》で医者からどうもそうではないらしい、やはり持病の結果だろうという判断を得て、始めて卒倒と腎臓病とを結び付けて考えるようになったのである。
 冬休みが来るにはまだ少し間《ま》があった。私は学期の終りまで待っていても差支《さしつか》えあるまいと思って一日二日そのままにしておいた。するとその一日二日の間に、父の寝ている様子だの、母の心配している顔だのが時々眼に浮かんだ。そのたびに一種の心苦しさを嘗《な》めた私は、とうとう帰る決心をした。国から旅費を送らせる手数《てかず》と時間を省くため、私は暇乞《いとまご》いかたがた先生の所へ行って、要《い》るだけの金を一時立て替えてもらう事にした。
 先生は少し風邪《かぜ》の気味で、座敷へ出るのが臆劫《おっくう》だといって、私をその書斎に通した。書斎の硝子戸《ガラスど》から冬に入《い》って稀《まれ》に見るような懐かしい和《やわ》らかな日光が机掛《つくえか》けの上に射《さ》していた。先生はこの日あたりの好《い》い室《へや》の中へ大きな火鉢を置いて、五徳《ごとく》の上に懸けた金盥《かなだらい》から立ち上《あが》る湯気《ゆげ》で、呼吸《いき》の苦しくなるのを防いでいた。
「大病は好《い》いが、ちょっとした風邪《かぜ》などはかえって厭《いや》なものですね」といった先生は、苦笑しながら私の顔を見た。
 先生は病気という病気をした事のない人であった。先生の言葉を聞いた私は笑いたくなった。
「私は風邪ぐらいなら我慢しますが、それ以上の病気は真平《まっぴら》です。先生だって同じ事でしょう。試みにやってご覧になるとよく解《わか》ります」
「そうかね。私は病気になるくらいなら、死病に罹《かか》りたいと思ってる」
 私は先生のいう事に格別注意を払わなかった。すぐ母の手紙の話をして、金の無心を申し出た。
「そりゃ困るでしょう。そのくらいなら今手元にあるはずだから持って行きたまえ」
 先生は奥さんを呼んで、必要の金額を私の前に並べさせてくれた。それを奥の茶箪笥《ちゃだんす》か何かの抽出《ひきだし》から出して来た奥さんは、白い半紙の上へ鄭寧《ていねい》に重ねて、「そりゃご心配ですね」といった。
「何遍《なんべん》も卒倒したんですか」と先生が聞いた。
「手紙には何とも書いてありませんが。――そんなに何度も引ッ繰り返るものですか」
「ええ」
 先生の奥さんの母親という人も私の父と同じ病気で亡くなったのだという事が始めて私に解った。
「どうせむずかしいんでしょう」と私がいった。
「そうさね。私が代られれば代ってあげても好《い》いが。――嘔気《はきけ》はあるんですか」
「どうですか、何とも書いてないから、大方《おおかた》ないんでしょう」
「吐気さえ来なければまだ大丈夫ですよ」と奥さんがいった。
 私はその晩の汽車で東京を立った。

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