2008年11月4日火曜日

十四

 父の病気は最後の一撃を待つ間際《まぎわ》まで進んで来て、そこでしばらく躊躇《ちゅうちょ》するようにみえた。家のものは運命の宣告が、今日|下《くだ》るか、今日下るかと思って、毎夜|床《とこ》にはいった。
 父は傍《はた》のものを辛《つら》くするほどの苦痛をどこにも感じていなかった。その点になると看病はむしろ楽であった。要心のために、誰か一人ぐらいずつ代る代る起きてはいたが、あとのものは相当の時間に各自《めいめい》の寝床へ引き取って差支《さしつか》えなかった。何かの拍子で眠れなかった時、病人の唸《うな》るような声を微《かす》かに聞いたと思い誤った私《わたくし》は、一|遍《ぺん》半夜《よなか》に床を抜け出して、念のため父の枕元《まくらもと》まで行ってみた事があった。その夜《よ》は母が起きている番に当っていた。しかしその母は父の横に肱《ひじ》を曲げて枕としたなり寝入っていた。父も深い眠りの裏《うち》にそっと置かれた人のように静かにしていた。私は忍び足でまた自分の寝床へ帰った。
 私は兄といっしょの蚊帳《かや》の中に寝た。妹《いもと》の夫だけは、客扱いを受けているせいか、独り離れた座敷に入《い》って休んだ。
「関《せき》さんも気の毒だね。ああ幾日も引っ張られて帰れなくっちゃあ」
 関というのはその人の苗字《みょうじ》であった。
「しかしそんな忙しい身体《からだ》でもないんだから、ああして泊っていてくれるんでしょう。関さんよりも兄さんの方が困るでしょう、こう長くなっちゃ」
「困っても仕方がない。外《ほか》の事と違うからな」
 兄と床《とこ》を並べて寝る私は、こんな寝物語をした。兄の頭にも私の胸にも、父はどうせ助からないという考えがあった。どうせ助からないものならばという考えもあった。我々は子として親の死ぬのを待っているようなものであった。しかし子としての我々はそれを言葉の上に表わすのを憚《はば》かった。そうしてお互いにお互いがどんな事を思っているかをよく理解し合っていた。
「お父さんは、まだ治る気でいるようだな」と兄が私にいった。
 実際兄のいう通りに見えるところもないではなかった。近所のものが見舞にくると、父は必ず会うといって承知しなかった。会えばきっと、私の卒業祝いに呼ぶ事ができなかったのを残念がった。その代り自分の病気が治ったらというような事も時々付け加えた。
「お前の卒業祝いは已《や》めになって結構だ。おれの時には弱ったからね」と兄は私の記憶を突ッついた。私はアルコールに煽《あお》られたその時の乱雑な有様を想《おも》い出して苦笑した。飲むものや食うものを強《し》いて廻《まわ》る父の態度も、にがにがしく私の眼に映った。
 私たちはそれほど仲の好《い》い兄弟ではなかった。小《ち》さいうちは好《よ》く喧嘩《けんか》をして、年の少ない私の方がいつでも泣かされた。学校へはいってからの専門の相違も、全く性格の相違から出ていた。大学にいる時分の私は、ことに先生に接触した私は、遠くから兄を眺《なが》めて、常に動物的だと思っていた。私は長く兄に会わなかったので、また懸け隔たった遠くにいたので、時からいっても距離からいっても、兄はいつでも私には近くなかったのである。それでも久しぶりにこう落ち合ってみると、兄弟の優《やさ》しい心持がどこからか自然に湧《わ》いて出た。場合が場合なのもその大きな源因《げんいん》になっていた。二人に共通な父、その父の死のうとしている枕元《まくらもと》で、兄と私は握手したのであった。
「お前これからどうする」と兄は聞いた。私はまた全く見当の違った質問を兄に掛けた。
「一体|家《うち》の財産はどうなってるんだろう」
「おれは知らない。お父さんはまだ何ともいわないから。しかし財産っていったところで金としては高《たか》の知れたものだろう」
 母はまた母で先生の返事の来るのを苦にしていた。
「まだ手紙は来ないかい」と私を責めた。

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