2008年11月4日火曜日

二十五

 その年の六月に卒業するはずの私《わたくし》は、ぜひともこの論文を成規通《せいきどお》り四月いっぱいに書き上げてしまわなければならなかった。二、三、四と指を折って余る時日を勘定して見た時、私は少し自分の度胸を疑《うたぐ》った。他《ほか》のものはよほど前から材料を蒐《あつ》めたり、ノートを溜《た》めたりして、余所目《よそめ》にも忙《いそが》しそうに見えるのに、私だけはまだ何にも手を着けずにいた。私にはただ年が改まったら大いにやろうという決心だけがあった。私はその決心でやり出した。そうして忽《たちま》ち動けなくなった。今まで大きな問題を空《くう》に描《えが》いて、骨組みだけはほぼでき上っているくらいに考えていた私は、頭を抑《おさ》えて悩み始めた。私はそれから論文の問題を小さくした。そうして練り上げた思想を系統的に纏《まと》める手数を省くために、ただ書物の中にある材料を並べて、それに相当な結論をちょっと付け加える事にした。
 私の選択した問題は先生の専門と縁故の近いものであった。私がかつてその選択について先生の意見を尋ねた時、先生は好《い》いでしょうといった。狼狽《ろうばい》した気味の私は、早速《さっそく》先生の所へ出掛けて、私の読まなければならない参考書を聞いた。先生は自分の知っている限りの知識を、快く私に与えてくれた上に、必要の書物を、二、三冊貸そうといった。しかし先生はこの点について毫《ごう》も私を指導する任に当ろうとしなかった。
「近頃《ちかごろ》はあんまり書物を読まないから、新しい事は知りませんよ。学校の先生に聞いた方が好いでしょう」
 先生は一時非常の読書家であったが、その後《ご》どういう訳か、前ほどこの方面に興味が働かなくなったようだと、かつて奥さんから聞いた事があるのを、私はその時ふと思い出した。私は論文をよそにして、そぞろに口を開いた。
「先生はなぜ元のように書物に興味をもち得ないんですか」
「なぜという訳もありませんが。……つまりいくら本を読んでもそれほどえらくならないと思うせいでしょう。それから……」
「それから、まだあるんですか」
「まだあるというほどの理由でもないが、以前はね、人の前へ出たり、人に聞かれたりして知らないと恥のようにきまりが悪かったものだが、近頃は知らないという事が、それほどの恥でないように見え出したものだから、つい無理にも本を読んでみようという元気が出なくなったのでしょう。まあ早くいえば老い込んだのです」
 先生の言葉はむしろ平静であった。世間に背中を向けた人の苦味《くみ》を帯びていなかっただけに、私にはそれほどの手応《てごた》えもなかった。私は先生を老い込んだとも思わない代りに、偉いとも感心せずに帰った。
 それからの私はほとんど論文に祟《たた》られた精神病者のように眼を赤くして苦しんだ。私は一年|前《ぜん》に卒業した友達について、色々様子を聞いてみたりした。そのうちの一人《いちにん》は締切《しめきり》の日に車で事務所へ馳《か》けつけて漸《ようや》く間に合わせたといった。他の一人は五時を十五分ほど後《おく》らして持って行ったため、危《あやう》く跳《は》ね付けられようとしたところを、主任教授の好意でやっと受理してもらったといった。私は不安を感ずると共に度胸を据《す》えた。毎日机の前で精根のつづく限り働いた。でなければ、薄暗い書庫にはいって、高い本棚のあちらこちらを見廻《みまわ》した。私の眼は好事家《こうずか》が骨董《こっとう》でも掘り出す時のように背表紙の金文字をあさった。
 梅が咲くにつけて寒い風は段々|向《むき》を南へ更《か》えて行った。それが一仕切《ひとしきり》経《た》つと、桜の噂《うわさ》がちらほら私の耳に聞こえ出した。それでも私は馬車馬のように正面ばかり見て、論文に鞭《むち》うたれた。私はついに四月の下旬が来て、やっと予定通りのものを書き上げるまで、先生の敷居を跨《また》がなかった。

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