2008年11月4日火曜日

二十九

 先生の談話は、この犬と小供のために、結末まで進行する事ができなくなったので、私はついにその要領を得ないでしまった。先生の気にする財産|云々《うんぬん》の掛念《けねん》はその時の私《わたくし》には全くなかった。私の性質として、また私の境遇からいって、その時の私には、そんな利害の念に頭を悩ます余地がなかったのである。考えるとこれは私がまだ世間に出ないためでもあり、また実際その場に臨まないためでもあったろうが、とにかく若い私にはなぜか金の問題が遠くの方に見えた。
 先生の話のうちでただ一つ底まで聞きたかったのは、人間がいざという間際に、誰でも悪人になるという言葉の意味であった。単なる言葉としては、これだけでも私に解《わか》らない事はなかった。しかし私はこの句についてもっと知りたかった。
 犬と小供《こども》が去ったあと、広い若葉の園は再び故《もと》の静かさに帰った。そうして我々は沈黙に鎖《と》ざされた人のようにしばらく動かずにいた。うるわしい空の色がその時次第に光を失って来た。眼の前にある樹《き》は大概|楓《かえで》であったが、その枝に滴《したた》るように吹いた軽い緑の若葉が、段々暗くなって行くように思われた。遠い往来を荷車を引いて行く響きがごろごろと聞こえた。私はそれを村の男が植木か何かを載せて縁日《えんにち》へでも出掛けるものと想像した。先生はその音を聞くと、急に瞑想《めいそう》から呼息《いき》を吹き返した人のように立ち上がった。
「もう、そろそろ帰りましょう。大分《だいぶ》日が永くなったようだが、やっぱりこう安閑としているうちには、いつの間にか暮れて行くんだね」
 先生の背中には、さっき縁台の上に仰向《あおむ》きに寝た痕《あと》がいっぱい着いていた。私は両手でそれを払い落した。
「ありがとう。脂《やに》がこびり着いてやしませんか」
「綺麗《きれい》に落ちました」
「この羽織はつい此間《こないだ》拵《こしら》えたばかりなんだよ。だからむやみに汚して帰ると、妻《さい》に叱《しか》られるからね。有難う」
 二人はまただらだら坂《ざか》の中途にある家《うち》の前へ来た。はいる時には誰もいる気色《けしき》の見えなかった縁《えん》に、お上《かみ》さんが、十五、六の娘を相手に、糸巻へ糸を巻きつけていた。二人は大きな金魚鉢の横から、「どうもお邪魔《じゃま》をしました」と挨拶《あいさつ》した。お上さんは「いいえお構《かま》い申しも致しませんで」と礼を返した後《あと》、先刻《さっき》小供にやった白銅《はくどう》の礼を述べた。
 門口《かどぐち》を出て二、三|町《ちょう》来た時、私はついに先生に向かって口を切った。
「さきほど先生のいわれた、人間は誰《だれ》でもいざという間際に悪人になるんだという意味ですね。あれはどういう意味ですか」
「意味といって、深い意味もありません。――つまり事実なんですよ。理屈じゃないんだ」
「事実で差支《さしつか》えありませんが、私の伺いたいのは、いざという間際という意味なんです。一体どんな場合を指すのですか」
 先生は笑い出した。あたかも時機《じき》の過ぎた今、もう熱心に説明する張合いがないといった風《ふう》に。
「金《かね》さ君。金を見ると、どんな君子《くんし》でもすぐ悪人になるのさ」
 私には先生の返事があまりに平凡過ぎて詰《つま》らなかった。先生が調子に乗らないごとく、私も拍子抜けの気味であった。私は澄ましてさっさと歩き出した。いきおい先生は少し後《おく》れがちになった。先生はあとから「おいおい」と声を掛けた。
「そら見たまえ」
「何をですか」
「君の気分だって、私の返事一つですぐ変るじゃないか」
 待ち合わせるために振り向いて立《た》ち留《ど》まった私の顔を見て、先生はこういった。

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