2008年11月4日火曜日

 私《わたくし》は母を蔭《かげ》へ呼んで父の病状を尋ねた。
「お父さんはあんなに元気そうに庭へ出たり何かしているが、あれでいいんですか」
「もう何ともないようだよ。大方《おおかた》好くおなりなんだろう」
 母は案外平気であった。都会から懸《か》け隔たった森や田の中に住んでいる女の常として、母はこういう事に掛けてはまるで無知識であった。それにしてもこの前父が卒倒した時には、あれほど驚いて、あんなに心配したものを、と私は心のうちで独り異《い》な感じを抱《いだ》いた。
「でも医者はあの時|到底《とても》むずかしいって宣告したじゃありませんか」
「だから人間の身体《からだ》ほど不思議なものはないと思うんだよ。あれほどお医者が手重《ておも》くいったものが、今までしゃんしゃんしているんだからね。お母さんも始めのうちは心配して、なるべく動かさないようにと思ってたんだがね。それ、あの気性だろう。養生はしなさるけれども、強情《ごうじょう》でねえ。自分が好《い》いと思い込んだら、なかなか私《わたし》のいう事なんか、聞きそうにもなさらないんだからね」
 私はこの前帰った時、無理に床《とこ》を上げさして、髭《ひげ》を剃《そ》った父の様子と態度とを思い出した。「もう大丈夫、お母さんがあんまり仰山《ぎょうさん》過ぎるからいけないんだ」といったその時の言葉を考えてみると、満更《まんざら》母ばかり責める気にもなれなかった。「しかし傍《はた》でも少しは注意しなくっちゃ」といおうとした私は、とうとう遠慮して何にも口へ出さなかった。ただ父の病《やまい》の性質について、私の知る限りを教えるように話して聞かせた。しかしその大部分は先生と先生の奥さんから得た材料に過ぎなかった。母は別に感動した様子も見せなかった。ただ「へえ、やっぱり同《おんな》じ病気でね。お気の毒だね。いくつでお亡くなりかえ、その方《かた》は」などと聞いた。
 私は仕方がないから、母をそのままにしておいて直接父に向かった。父は私の注意を母よりは真面目《まじめ》に聞いてくれた。「もっともだ。お前のいう通りだ。けれども、己《おれ》の身体《からだ》は必竟《ひっきょう》己の身体で、その己の身体についての養生法は、多年の経験己が一番|能《よ》く心得ているはずだからね」といった。それを聞いた母は苦笑した。「それご覧な」といった。
「でも、あれでお父さんは自分でちゃんと覚悟だけはしているんですよ。今度私が卒上、業して帰ったのを大変喜んでいるのも、全くそのためなんです。生きてるうちに卒業はできまいと思ったのが、達者なうちに免状を持って来たから、それが嬉《うれ》しいんだって、お父さんは自分でそういっていましたぜ」
「そりゃ、お前、口でこそそうおいいだけれどもね。お腹《なか》のなかではまだ大丈夫だと思ってお出《いで》のだよ」
「そうでしょうか」
「まだまだ十年も二十年も生きる気でお出のだよ。もっとも時々はわたしにも心細いような事をおいいだがね。おれもこの分じゃもう長い事もあるまいよ、おれが死んだら、お前はどうする、一人でこの家《うち》にいる気かなんて」
 私は急に父がいなくなって母一人が取り残された時の、古い広い田舎家《いなかや》を想像して見た。この家《いえ》から父一人を引き去った後《あと》は、そのままで立ち行くだろうか。兄はどうするだろうか。母は何というだろうか。そう考える私はまたここの土を離れて、東京で気楽に暮らして行けるだろうか。私は母を眼の前に置いて、先生の注意――父の丈夫でいるうちに、分けて貰《もら》うものは、分けて貰って置けという注意を、偶然思い出した。
「なにね、自分で死ぬ死ぬっていう人に死んだ試《ため》しはないんだから安心だよ。お父さんなんぞも、死ぬ死ぬっていいながら、これから先まだ何年生きなさるか分るまいよ。それよりか黙ってる丈夫の人の方が剣呑《けんのん》さ」
 私は理屈から出たとも統計から来たとも知れない、この陳腐《ちんぷ》なような母の言葉を黙然《もくねん》と聞いていた。

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