2008年11月4日火曜日

十七

 私《わたくし》はまだその後《あと》にいうべき事をもっていた。けれども奥さんから徒《いたず》らに議論を仕掛ける男のように取られては困ると思って遠慮した。奥さんは飲み干した紅茶茶碗《こうちゃぢゃわん》の底を覗《のぞ》いて黙っている私を外《そ》らさないように、「もう一杯上げましょうか」と聞いた。私はすぐ茶碗を奥さんの手に渡した。
「いくつ? 一つ? 二ッつ?」
 妙なもので角砂糖をつまみ上げた奥さんは、私の顔を見て、茶碗の中へ入れる砂糖の数《かず》を聞いた。奥さんの態度は私に媚《こ》びるというほどではなかったけれども、先刻《さっき》の強い言葉を力《つと》めて打ち消そうとする愛嬌《あいきょう》に充《み》ちていた。
 私は黙って茶を飲んだ。飲んでしまっても黙っていた。
「あなた大変黙り込んじまったのね」と奥さんがいった。
「何かいうとまた議論を仕掛けるなんて、叱《しか》り付けられそうですから」と私は答えた。
「まさか」と奥さんが再びいった。
 二人はそれを緒口《いとくち》にまた話を始めた。そうしてまた二人に共通な興味のある先生を問題にした。
「奥さん、先刻《さっき》の続きをもう少しいわせて下さいませんか。奥さんには空《から》な理屈と聞こえるかも知れませんが、私はそんな上《うわ》の空《そら》でいってる事じゃないんだから」
「じゃおっしゃい」
「今奥さんが急にいなくなったとしたら、先生は現在の通りで生きていられるでしょうか」
「そりゃ分らないわ、あなた。そんな事、先生に聞いて見るより外《ほか》に仕方がないじゃありませんか。私の所へ持って来る問題じゃないわ」
「奥さん、私は真面目《まじめ》ですよ。だから逃げちゃいけません。正直に答えなくっちゃ」
「正直よ。正直にいって私には分らないのよ」
「じゃ奥さんは先生をどのくらい愛していらっしゃるんですか。これは先生に聞くよりむしろ奥さんに伺っていい質問ですから、あなたに伺います」
「何もそんな事を開き直って聞かなくっても好《い》いじゃありませんか」
「真面目くさって聞くがものはない。分り切ってるとおっしゃるんですか」
「まあそうよ」
「そのくらい先生に忠実なあなたが急にいなくなったら、先生はどうなるんでしょう。世の中のどっちを向いても面白そうでない先生は、あなたが急にいなくなったら後でどうなるでしょう。先生から見てじゃない。あなたから見てですよ。あなたから見て、先生は幸福になるでしょうか、不幸になるでしょうか」
「そりゃ私から見れば分っています。(先生はそう思っていないかも知れませんが)。先生は私を離れれば不幸になるだけです。あるいは生きていられないかも知れませんよ。そういうと、己惚《おのぼれ》になるようですが、私は今先生を人間としてできるだけ幸福にしているんだと信じていますわ。どんな人があっても私ほど先生を幸福にできるものはないとまで思い込んでいますわ。それだからこうして落ち付いていられるんです」
「その信念が先生の心に好《よ》く映るはずだと私は思いますが」
「それは別問題ですわ」
「やっぱり先生から嫌われているとおっしゃるんですか」
「私は嫌われてるとは思いません。嫌われる訳がないんですもの。しかし先生は世間が嫌いなんでしょう。世間というより近頃《ちかごろ》では人間が嫌いになっているんでしょう。だからその人間の一人《いちにん》として、私も好かれるはずがないじゃありませんか」
 奥さんの嫌われているという意味がやっと私に呑《の》み込めた。

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