幸《さいわ》いにして先生の予言は実現されずに済んだ。経験のない当時の私《わたくし》は、この予言の中《うち》に含まれている明白な意義さえ了解し得なかった。私は依然として先生に会いに行った。その内《うち》いつの間にか先生の食卓で飯《めし》を食うようになった。自然の結果奥さんとも口を利《き》かなければならないようになった。
普通の人間として私は女に対して冷淡ではなかった。けれども年の若い私の今まで経過して来た境遇からいって、私はほとんど交際らしい交際を女に結んだ事がなかった。それが源因《げんいん》かどうかは疑問だが、私の興味は往来で出合う知りもしない女に向かって多く働くだけであった。先生の奥さんにはその前玄関で会った時、美しいという印象を受けた。それから会うたんびに同じ印象を受けない事はなかった。しかしそれ以外に私はこれといってとくに奥さんについて語るべき何物ももたないような気がした。
これは奥さんに特色がないというよりも、特色を示す機会が来なかったのだと解釈する方が正当かも知れない。しかし私はいつでも先生に付属した一部分のような心持で奥さんに対していた。奥さんも自分の夫の所へ来る書生だからという好意で、私を遇していたらしい。だから中間に立つ先生を取り除《の》ければ、つまり二人はばらばらになっていた。それで始めて知り合いになった時の奥さんについては、ただ美しいという外《ほか》に何の感じも残っていない。
ある時私は先生の宅《うち》で酒を飲まされた。その時奥さんが出て来て傍《そば》で酌《しゃく》をしてくれた。先生はいつもより愉快そうに見えた。奥さんに「お前も一つお上がり」といって、自分の呑《の》み干した盃《さかずき》を差した。奥さんは「私は……」と辞退しかけた後《あと》、迷惑そうにそれを受け取った。奥さんは綺麗《きれい》な眉《まゆ》を寄せて、私の半分ばかり注《つ》いで上げた盃を、唇の先へ持って行った。奥さんと先生の間に下《しも》のような会話が始まった。
「珍らしい事。私に呑めとおっしゃった事は滅多《めった》にないのにね」
「お前は嫌《きら》いだからさ。しかし稀《たま》には飲むといいよ。好《い》い心持になるよ」
「ちっともならないわ。苦しいぎりで。でもあなたは大変ご愉快《ゆかい》そうね、少しご酒《しゅ》を召し上がると」
「時によると大変愉快になる。しかしいつでもというわけにはいかない」
「今夜はいかがです」
「今夜は好《い》い心持だね」
「これから毎晩少しずつ召し上がると宜《よ》ござんすよ」
「そうはいかない」
「召し上がって下さいよ。その方が淋《さむ》しくなくって好いから」
先生の宅《うち》は夫婦と下女《げじょ》だけであった。行くたびに大抵《たいてい》はひそりとしていた。高い笑い声などの聞こえる試しはまるでなかった。或《あ》る時《とき》は宅の中にいるものは先生と私だけのような気がした。
「子供でもあると好いんですがね」と奥さんは私の方を向いていった。私は「そうですな」と答えた。しかし私の心には何の同情も起らなかった。子供を持った事のないその時の私は、子供をただ蒼蠅《うるさ》いもののように考えていた。
「一人|貰《もら》ってやろうか」と先生がいった。
「貰《もらい》ッ子じゃ、ねえあなた」と奥さんはまた私の方を向いた。
「子供はいつまで経《た》ったってできっこないよ」と先生がいった。
奥さんは黙っていた。「なぜです」と私が代りに聞いた時先生は「天罰だからさ」といって高く笑った。
2008年11月4日火曜日
九
私《わたくし》の知る限り先生と奥さんとは、仲の好《い》い夫婦の一対《いっつい》であった。家庭の一員として暮した事のない私のことだから、深い消息は無論|解《わか》らなかったけれども、座敷で私と対坐《たいざ》している時、先生は何かのついでに、下女《げじょ》を呼ばないで、奥さんを呼ぶ事があった。(奥さんの名は静《しず》といった)。先生は「おい静」といつでも襖《ふすま》の方を振り向いた。その呼びかたが私には優《やさ》しく聞こえた。返事をして出て来る奥さんの様子も甚《はなは》だ素直であった。ときたまご馳走《ちそう》になって、奥さんが席へ現われる場合などには、この関係が一層明らかに二人の間《あいだ》に描《えが》き出されるようであった。
先生は時々奥さんを伴《つ》れて、音楽会だの芝居だのに行った。それから夫婦づれで一週間以内の旅行をした事も、私の記憶によると、二、三度以上あった。私は箱根《はこね》から貰った絵端書《えはがき》をまだ持っている。日光《にっこう》へ行った時は紅葉《もみじ》の葉を一枚封じ込めた郵便も貰った。
当時の私の眼に映った先生と奥さんの間柄はまずこんなものであった。そのうちにたった一つの例外があった。ある日私がいつもの通り、先生の玄関から案内を頼もうとすると、座敷の方でだれかの話し声がした。よく聞くと、それが尋常の談話でなくって、どうも言逆《いさか》いらしかった。先生の宅は玄関の次がすぐ座敷になっているので、格子《こうし》の前に立っていた私の耳にその言逆《いさか》いの調子だけはほぼ分った。そうしてそのうちの一人が先生だという事も、時々高まって来る男の方の声で解った。相手は先生よりも低い音《おん》なので、誰だか判然《はっきり》しなかったが、どうも奥さんらしく感ぜられた。泣いているようでもあった。私はどうしたものだろうと思って玄関先で迷ったが、すぐ決心をしてそのまま下宿へ帰った。
妙に不安な心持が私を襲って来た。私は書物を読んでも呑《の》み込む能力を失ってしまった。約一時間ばかりすると先生が窓の下へ来て私の名を呼んだ。私は驚いて窓を開けた。先生は散歩しようといって、下から私を誘った。先刻《さっき》帯の間へ包《くる》んだままの時計を出して見ると、もう八時過ぎであった。私は帰ったなりまだ袴《はかま》を着けていた。私はそれなりすぐ表へ出た。
その晩私は先生といっしょに麦酒《ビール》を飲んだ。先生は元来酒量に乏しい人であった。ある程度まで飲んで、それで酔えなければ、酔うまで飲んでみるという冒険のできない人であった。
「今日は駄目《だめ》です」といって先生は苦笑した。
「愉快になれませんか」と私は気の毒そうに聞いた。
私の腹の中には始終|先刻《さっき》の事が引《ひ》っ懸《かか》っていた。肴《さかな》の骨が咽喉《のど》に刺さった時のように、私は苦しんだ。打ち明けてみようかと考えたり、止《よ》した方が好《よ》かろうかと思い直したりする動揺が、妙に私の様子をそわそわさせた。
「君、今夜はどうかしていますね」と先生の方からいい出した。「実は私も少し変なのですよ。君に分りますか」
私は何の答えもし得なかった。
「実は先刻《さっき》妻《さい》と少し喧嘩《けんか》をしてね。それで下《くだ》らない神経を昂奮《こうふん》させてしまったんです」と先生がまたいった。
「どうして……」
私には喧嘩という言葉が口へ出て来なかった。
「妻が私を誤解するのです。それを誤解だといって聞かせても承知しないのです。つい腹を立てたのです」
「どんなに先生を誤解なさるんですか」
先生は私のこの問いに答えようとはしなかった。
「妻が考えているような人間なら、私だってこんなに苦しんでいやしない」
先生がどんなに苦しんでいるか、これも私には想像の及ばない問題であった。
先生は時々奥さんを伴《つ》れて、音楽会だの芝居だのに行った。それから夫婦づれで一週間以内の旅行をした事も、私の記憶によると、二、三度以上あった。私は箱根《はこね》から貰った絵端書《えはがき》をまだ持っている。日光《にっこう》へ行った時は紅葉《もみじ》の葉を一枚封じ込めた郵便も貰った。
当時の私の眼に映った先生と奥さんの間柄はまずこんなものであった。そのうちにたった一つの例外があった。ある日私がいつもの通り、先生の玄関から案内を頼もうとすると、座敷の方でだれかの話し声がした。よく聞くと、それが尋常の談話でなくって、どうも言逆《いさか》いらしかった。先生の宅は玄関の次がすぐ座敷になっているので、格子《こうし》の前に立っていた私の耳にその言逆《いさか》いの調子だけはほぼ分った。そうしてそのうちの一人が先生だという事も、時々高まって来る男の方の声で解った。相手は先生よりも低い音《おん》なので、誰だか判然《はっきり》しなかったが、どうも奥さんらしく感ぜられた。泣いているようでもあった。私はどうしたものだろうと思って玄関先で迷ったが、すぐ決心をしてそのまま下宿へ帰った。
妙に不安な心持が私を襲って来た。私は書物を読んでも呑《の》み込む能力を失ってしまった。約一時間ばかりすると先生が窓の下へ来て私の名を呼んだ。私は驚いて窓を開けた。先生は散歩しようといって、下から私を誘った。先刻《さっき》帯の間へ包《くる》んだままの時計を出して見ると、もう八時過ぎであった。私は帰ったなりまだ袴《はかま》を着けていた。私はそれなりすぐ表へ出た。
その晩私は先生といっしょに麦酒《ビール》を飲んだ。先生は元来酒量に乏しい人であった。ある程度まで飲んで、それで酔えなければ、酔うまで飲んでみるという冒険のできない人であった。
「今日は駄目《だめ》です」といって先生は苦笑した。
「愉快になれませんか」と私は気の毒そうに聞いた。
私の腹の中には始終|先刻《さっき》の事が引《ひ》っ懸《かか》っていた。肴《さかな》の骨が咽喉《のど》に刺さった時のように、私は苦しんだ。打ち明けてみようかと考えたり、止《よ》した方が好《よ》かろうかと思い直したりする動揺が、妙に私の様子をそわそわさせた。
「君、今夜はどうかしていますね」と先生の方からいい出した。「実は私も少し変なのですよ。君に分りますか」
私は何の答えもし得なかった。
「実は先刻《さっき》妻《さい》と少し喧嘩《けんか》をしてね。それで下《くだ》らない神経を昂奮《こうふん》させてしまったんです」と先生がまたいった。
「どうして……」
私には喧嘩という言葉が口へ出て来なかった。
「妻が私を誤解するのです。それを誤解だといって聞かせても承知しないのです。つい腹を立てたのです」
「どんなに先生を誤解なさるんですか」
先生は私のこの問いに答えようとはしなかった。
「妻が考えているような人間なら、私だってこんなに苦しんでいやしない」
先生がどんなに苦しんでいるか、これも私には想像の及ばない問題であった。
十
二人が帰るとき歩きながらの沈黙が一|丁《ちょう》も二丁もつづいた。その後《あと》で突然先生が口を利《き》き出した。
「悪い事をした。怒って出たから妻《さい》はさぞ心配をしているだろう。考えると女は可哀《かわい》そうなものですね。私《わたくし》の妻などは私より外《ほか》にまるで頼りにするものがないんだから」
先生の言葉はちょっとそこで途切《とぎ》れたが、別に私の返事を期待する様子もなく、すぐその続きへ移って行った。
「そういうと、夫の方はいかにも心丈夫のようで少し滑稽《こっけい》だが。君、私は君の眼にどう映りますかね。強い人に見えますか、弱い人に見えますか」
「中位《ちゅうぐらい》に見えます」と私は答えた。この答えは先生にとって少し案外らしかった。先生はまた口を閉じて、無言で歩き出した。
先生の宅《うち》へ帰るには私の下宿のつい傍《そば》を通るのが順路であった。私はそこまで来て、曲り角で分れるのが先生に済まないような気がした。「ついでにお宅《たく》の前までお伴《とも》しましょうか」といった。先生は忽《たちま》ち手で私を遮《さえぎ》った。
「もう遅いから早く帰りたまえ。私も早く帰ってやるんだから、妻君《さいくん》のために」
先生が最後に付け加えた「妻君のために」という言葉は妙にその時の私の心を暖かにした。私はその言葉のために、帰ってから安心して寝る事ができた。私はその後《ご》も長い間この「妻君のために」という言葉を忘れなかった。
先生と奥さんの間に起った波瀾《はらん》が、大したものでない事はこれでも解《わか》った。それがまた滅多《めった》に起る現象でなかった事も、その後絶えず出入《でい》りをして来た私にはほぼ推察ができた。それどころか先生はある時こんな感想すら私に洩《も》らした。
「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。妻《さい》以外の女はほとんど女として私に訴えないのです。妻の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。そういう意味からいって、私たちは最も幸福に生れた人間の一対《いっつい》であるべきはずです」
私は今前後の行《ゆ》き掛《がか》りを忘れてしまったから、先生が何のためにこんな自白を私にして聞かせたのか、判然《はっきり》いう事ができない。けれども先生の態度の真面目《まじめ》であったのと、調子の沈んでいたのとは、いまだに記憶に残っている。その時ただ私の耳に異様に響いたのは、「最も幸福に生れた人間の一対であるべきはずです」という最後の一句であった。先生はなぜ幸福な人間といい切らないで、あるべきはずであると断わったのか。私にはそれだけが不審であった。ことにそこへ一種の力を入れた先生の語気が不審であった。先生は事実はたして幸福なのだろうか、また幸福であるべきはずでありながら、それほど幸福でないのだろうか。私は心の中《うち》で疑《うたぐ》らざるを得なかった。けれどもその疑いは一時限りどこかへ葬《ほうむ》られてしまった。
私はそのうち先生の留守に行って、奥さんと二人|差向《さしむか》いで話をする機会に出合った。先生はその日|横浜《よこはま》を出帆《しゅっぱん》する汽船に乗って外国へ行くべき友人を新橋《しんばし》へ送りに行って留守であった。横浜から船に乗る人が、朝八時半の汽車で新橋を立つのはその頃《ころ》の習慣であった。私はある書物について先生に話してもらう必要があったので、あらかじめ先生の承諾を得た通り、約束の九時に訪問した。先生の新橋行きは前日わざわざ告別に来た友人に対する礼義《れいぎ》としてその日突然起った出来事であった。先生はすぐ帰るから留守でも私に待っているようにといい残して行った。それで私は座敷へ上がって、先生を待つ間、奥さんと話をした。
「悪い事をした。怒って出たから妻《さい》はさぞ心配をしているだろう。考えると女は可哀《かわい》そうなものですね。私《わたくし》の妻などは私より外《ほか》にまるで頼りにするものがないんだから」
先生の言葉はちょっとそこで途切《とぎ》れたが、別に私の返事を期待する様子もなく、すぐその続きへ移って行った。
「そういうと、夫の方はいかにも心丈夫のようで少し滑稽《こっけい》だが。君、私は君の眼にどう映りますかね。強い人に見えますか、弱い人に見えますか」
「中位《ちゅうぐらい》に見えます」と私は答えた。この答えは先生にとって少し案外らしかった。先生はまた口を閉じて、無言で歩き出した。
先生の宅《うち》へ帰るには私の下宿のつい傍《そば》を通るのが順路であった。私はそこまで来て、曲り角で分れるのが先生に済まないような気がした。「ついでにお宅《たく》の前までお伴《とも》しましょうか」といった。先生は忽《たちま》ち手で私を遮《さえぎ》った。
「もう遅いから早く帰りたまえ。私も早く帰ってやるんだから、妻君《さいくん》のために」
先生が最後に付け加えた「妻君のために」という言葉は妙にその時の私の心を暖かにした。私はその言葉のために、帰ってから安心して寝る事ができた。私はその後《ご》も長い間この「妻君のために」という言葉を忘れなかった。
先生と奥さんの間に起った波瀾《はらん》が、大したものでない事はこれでも解《わか》った。それがまた滅多《めった》に起る現象でなかった事も、その後絶えず出入《でい》りをして来た私にはほぼ推察ができた。それどころか先生はある時こんな感想すら私に洩《も》らした。
「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。妻《さい》以外の女はほとんど女として私に訴えないのです。妻の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。そういう意味からいって、私たちは最も幸福に生れた人間の一対《いっつい》であるべきはずです」
私は今前後の行《ゆ》き掛《がか》りを忘れてしまったから、先生が何のためにこんな自白を私にして聞かせたのか、判然《はっきり》いう事ができない。けれども先生の態度の真面目《まじめ》であったのと、調子の沈んでいたのとは、いまだに記憶に残っている。その時ただ私の耳に異様に響いたのは、「最も幸福に生れた人間の一対であるべきはずです」という最後の一句であった。先生はなぜ幸福な人間といい切らないで、あるべきはずであると断わったのか。私にはそれだけが不審であった。ことにそこへ一種の力を入れた先生の語気が不審であった。先生は事実はたして幸福なのだろうか、また幸福であるべきはずでありながら、それほど幸福でないのだろうか。私は心の中《うち》で疑《うたぐ》らざるを得なかった。けれどもその疑いは一時限りどこかへ葬《ほうむ》られてしまった。
私はそのうち先生の留守に行って、奥さんと二人|差向《さしむか》いで話をする機会に出合った。先生はその日|横浜《よこはま》を出帆《しゅっぱん》する汽船に乗って外国へ行くべき友人を新橋《しんばし》へ送りに行って留守であった。横浜から船に乗る人が、朝八時半の汽車で新橋を立つのはその頃《ころ》の習慣であった。私はある書物について先生に話してもらう必要があったので、あらかじめ先生の承諾を得た通り、約束の九時に訪問した。先生の新橋行きは前日わざわざ告別に来た友人に対する礼義《れいぎ》としてその日突然起った出来事であった。先生はすぐ帰るから留守でも私に待っているようにといい残して行った。それで私は座敷へ上がって、先生を待つ間、奥さんと話をした。
十一
その時の私《わたくし》はすでに大学生であった。始めて先生の宅《うち》へ来た頃《ころ》から見るとずっと成人した気でいた。奥さんとも大分《だいぶ》懇意になった後《のち》であった。私は奥さんに対して何の窮屈も感じなかった。差向《さしむか》いで色々の話をした。しかしそれは特色のないただの談話だから、今ではまるで忘れてしまった。そのうちでたった一つ私の耳に留まったものがある。しかしそれを話す前に、ちょっと断っておきたい事がある。
先生は大学出身であった。これは始めから私に知れていた。しかし先生の何もしないで遊んでいるという事は、東京へ帰って少し経《た》ってから始めて分った。私はその時どうして遊んでいられるのかと思った。
先生はまるで世間に名前を知られていない人であった。だから先生の学問や思想については、先生と密切《みっせつ》の関係をもっている私より外《ほか》に敬意を払うもののあるべきはずがなかった。それを私は常に惜《お》しい事だといった。先生はまた「私のようなものが世の中へ出て、口を利《き》いては済まない」と答えるぎりで、取り合わなかった。私にはその答えが謙遜《けんそん》過ぎてかえって世間を冷評するようにも聞こえた。実際先生は時々昔の同級生で今著名になっている誰彼《だれかれ》を捉《とら》えて、ひどく無遠慮な批評を加える事があった。それで私は露骨にその矛盾を挙げて云々《うんぬん》してみた。私の精神は反抗の意味というよりも、世間が先生を知らないで平気でいるのが残念だったからである。その時先生は沈んだ調子で、「どうしても私は世間に向かって働き掛ける資格のない男だから仕方がありません」といった。先生の顔には深い一種の表情がありありと刻まれた。私にはそれが失望だか、不平だか、悲哀だか、解《わか》らなかったけれども、何しろ二の句の継げないほどに強いものだったので、私はそれぎり何もいう勇気が出なかった。
私が奥さんと話している間に、問題が自然先生の事からそこへ落ちて来た。
「先生はなぜああやって、宅で考えたり勉強したりなさるだけで、世の中へ出て仕事をなさらないんでしょう」
「あの人は駄目《だめ》ですよ。そういう事が嫌いなんですから」
「つまり下《くだ》らない事だと悟っていらっしゃるんでしょうか」
「悟るの悟らないのって、――そりゃ女だからわたくしには解りませんけれど、おそらくそんな意味じゃないでしょう。やっぱり何かやりたいのでしょう。それでいてできないんです。だから気の毒ですわ」
「しかし先生は健康からいって、別にどこも悪いところはないようじゃありませんか」
「丈夫ですとも。何にも持病はありません」
「それでなぜ活動ができないんでしょう」
「それが解《わか》らないのよ、あなた。それが解るくらいなら私だって、こんなに心配しやしません。わからないから気の毒でたまらないんです」
奥さんの語気には非常に同情があった。それでも口元だけには微笑が見えた。外側からいえば、私の方がむしろ真面目《まじめ》だった。私はむずかしい顔をして黙っていた。すると奥さんが急に思い出したようにまた口を開いた。
「若い時はあんな人じゃなかったんですよ。若い時はまるで違っていました。それが全く変ってしまったんです」
「若い時っていつ頃ですか」と私が聞いた。
「書生時代よ」
「書生時代から先生を知っていらっしゃったんですか」
奥さんは急に薄赤い顔をした。
先生は大学出身であった。これは始めから私に知れていた。しかし先生の何もしないで遊んでいるという事は、東京へ帰って少し経《た》ってから始めて分った。私はその時どうして遊んでいられるのかと思った。
先生はまるで世間に名前を知られていない人であった。だから先生の学問や思想については、先生と密切《みっせつ》の関係をもっている私より外《ほか》に敬意を払うもののあるべきはずがなかった。それを私は常に惜《お》しい事だといった。先生はまた「私のようなものが世の中へ出て、口を利《き》いては済まない」と答えるぎりで、取り合わなかった。私にはその答えが謙遜《けんそん》過ぎてかえって世間を冷評するようにも聞こえた。実際先生は時々昔の同級生で今著名になっている誰彼《だれかれ》を捉《とら》えて、ひどく無遠慮な批評を加える事があった。それで私は露骨にその矛盾を挙げて云々《うんぬん》してみた。私の精神は反抗の意味というよりも、世間が先生を知らないで平気でいるのが残念だったからである。その時先生は沈んだ調子で、「どうしても私は世間に向かって働き掛ける資格のない男だから仕方がありません」といった。先生の顔には深い一種の表情がありありと刻まれた。私にはそれが失望だか、不平だか、悲哀だか、解《わか》らなかったけれども、何しろ二の句の継げないほどに強いものだったので、私はそれぎり何もいう勇気が出なかった。
私が奥さんと話している間に、問題が自然先生の事からそこへ落ちて来た。
「先生はなぜああやって、宅で考えたり勉強したりなさるだけで、世の中へ出て仕事をなさらないんでしょう」
「あの人は駄目《だめ》ですよ。そういう事が嫌いなんですから」
「つまり下《くだ》らない事だと悟っていらっしゃるんでしょうか」
「悟るの悟らないのって、――そりゃ女だからわたくしには解りませんけれど、おそらくそんな意味じゃないでしょう。やっぱり何かやりたいのでしょう。それでいてできないんです。だから気の毒ですわ」
「しかし先生は健康からいって、別にどこも悪いところはないようじゃありませんか」
「丈夫ですとも。何にも持病はありません」
「それでなぜ活動ができないんでしょう」
「それが解《わか》らないのよ、あなた。それが解るくらいなら私だって、こんなに心配しやしません。わからないから気の毒でたまらないんです」
奥さんの語気には非常に同情があった。それでも口元だけには微笑が見えた。外側からいえば、私の方がむしろ真面目《まじめ》だった。私はむずかしい顔をして黙っていた。すると奥さんが急に思い出したようにまた口を開いた。
「若い時はあんな人じゃなかったんですよ。若い時はまるで違っていました。それが全く変ってしまったんです」
「若い時っていつ頃ですか」と私が聞いた。
「書生時代よ」
「書生時代から先生を知っていらっしゃったんですか」
奥さんは急に薄赤い顔をした。
十二
奥さんは東京の人であった。それはかつて先生からも奥さん自身からも聞いて知っていた。奥さんは「本当いうと合《あい》の子《こ》なんですよ」といった。奥さんの父親はたしか鳥取《とっとり》かどこかの出であるのに、お母さんの方はまだ江戸といった時分《じぶん》の市ヶ谷《いちがや》で生れた女なので、奥さんは冗談半分そういったのである。ところが先生は全く方角違いの新潟《にいがた》県人であった。だから奥さんがもし先生の書生時代を知っているとすれば、郷里の関係からでない事は明らかであった。しかし薄赤い顔をした奥さんはそれより以上の話をしたくないようだったので、私の方でも深くは聞かずにおいた。
先生と知り合いになってから先生の亡くなるまでに、私はずいぶん色々の問題で先生の思想や情操に触れてみたが、結婚当時の状況については、ほとんど何ものも聞き得なかった。私は時によると、それを善意に解釈してもみた。年輩の先生の事だから、艶《なま》めかしい回想などを若いものに聞かせるのはわざと慎《つつし》んでいるのだろうと思った。時によると、またそれを悪くも取った。先生に限らず、奥さんに限らず、二人とも私に比べると、一時代前の因襲のうちに成人したために、そういう艶《つや》っぽい問題になると、正直に自分を開放するだけの勇気がないのだろうと考えた。もっともどちらも推測に過ぎなかった。そうしてどちらの推測の裏にも、二人の結婚の奥に横たわる花やかなロマンスの存在を仮定していた。
私の仮定ははたして誤らなかった。けれども私はただ恋の半面だけを想像に描《えが》き得たに過ぎなかった。先生は美しい恋愛の裏に、恐ろしい悲劇を持っていた。そうしてその悲劇のどんなに先生にとって見惨《みじめ》なものであるかは相手の奥さんにまるで知れていなかった。奥さんは今でもそれを知らずにいる。先生はそれを奥さんに隠して死んだ。先生は奥さんの幸福を破壊する前に、まず自分の生命を破壊してしまった。
私は今この悲劇について何事も語らない。その悲劇のためにむしろ生れ出たともいえる二人の恋愛については、先刻《さっき》いった通りであった。二人とも私にはほとんど何も話してくれなかった。奥さんは慎みのために、先生はまたそれ以上の深い理由のために。
ただ一つ私の記憶に残っている事がある。或《あ》る時|花時分《はなじぶん》に私は先生といっしょに上野《うえの》へ行った。そうしてそこで美しい一対《いっつい》の男女《なんにょ》を見た。彼らは睦《むつ》まじそうに寄り添って花の下を歩いていた。場所が場所なので、花よりもそちらを向いて眼を峙《そば》だてている人が沢山あった。
「新婚の夫婦のようだね」と先生がいった。
「仲が好《よ》さそうですね」と私が答えた。
先生は苦笑さえしなかった。二人の男女を視線の外《ほか》に置くような方角へ足を向けた。それから私にこう聞いた。
「君は恋をした事がありますか」
私はないと答えた。
「恋をしたくはありませんか」
私は答えなかった。
「したくない事はないでしょう」
「ええ」
「君は今あの男と女を見て、冷評《ひやか》しましたね。あの冷評《ひやかし》のうちには君が恋を求めながら相手を得られないという不快の声が交《まじ》っていましょう」
「そんな風《ふう》に聞こえましたか」
「聞こえました。恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ。解《わか》っていますか」
私は急に驚かされた。何とも返事をしなかった。
先生と知り合いになってから先生の亡くなるまでに、私はずいぶん色々の問題で先生の思想や情操に触れてみたが、結婚当時の状況については、ほとんど何ものも聞き得なかった。私は時によると、それを善意に解釈してもみた。年輩の先生の事だから、艶《なま》めかしい回想などを若いものに聞かせるのはわざと慎《つつし》んでいるのだろうと思った。時によると、またそれを悪くも取った。先生に限らず、奥さんに限らず、二人とも私に比べると、一時代前の因襲のうちに成人したために、そういう艶《つや》っぽい問題になると、正直に自分を開放するだけの勇気がないのだろうと考えた。もっともどちらも推測に過ぎなかった。そうしてどちらの推測の裏にも、二人の結婚の奥に横たわる花やかなロマンスの存在を仮定していた。
私の仮定ははたして誤らなかった。けれども私はただ恋の半面だけを想像に描《えが》き得たに過ぎなかった。先生は美しい恋愛の裏に、恐ろしい悲劇を持っていた。そうしてその悲劇のどんなに先生にとって見惨《みじめ》なものであるかは相手の奥さんにまるで知れていなかった。奥さんは今でもそれを知らずにいる。先生はそれを奥さんに隠して死んだ。先生は奥さんの幸福を破壊する前に、まず自分の生命を破壊してしまった。
私は今この悲劇について何事も語らない。その悲劇のためにむしろ生れ出たともいえる二人の恋愛については、先刻《さっき》いった通りであった。二人とも私にはほとんど何も話してくれなかった。奥さんは慎みのために、先生はまたそれ以上の深い理由のために。
ただ一つ私の記憶に残っている事がある。或《あ》る時|花時分《はなじぶん》に私は先生といっしょに上野《うえの》へ行った。そうしてそこで美しい一対《いっつい》の男女《なんにょ》を見た。彼らは睦《むつ》まじそうに寄り添って花の下を歩いていた。場所が場所なので、花よりもそちらを向いて眼を峙《そば》だてている人が沢山あった。
「新婚の夫婦のようだね」と先生がいった。
「仲が好《よ》さそうですね」と私が答えた。
先生は苦笑さえしなかった。二人の男女を視線の外《ほか》に置くような方角へ足を向けた。それから私にこう聞いた。
「君は恋をした事がありますか」
私はないと答えた。
「恋をしたくはありませんか」
私は答えなかった。
「したくない事はないでしょう」
「ええ」
「君は今あの男と女を見て、冷評《ひやか》しましたね。あの冷評《ひやかし》のうちには君が恋を求めながら相手を得られないという不快の声が交《まじ》っていましょう」
「そんな風《ふう》に聞こえましたか」
「聞こえました。恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ。解《わか》っていますか」
私は急に驚かされた。何とも返事をしなかった。
十三
我々は群集の中にいた。群集はいずれも嬉《うれ》しそうな顔をしていた。そこを通り抜けて、花も人も見えない森の中へ来るまでは、同じ問題を口にする機会がなかった。
「恋は罪悪ですか」と私《わたくし》がその時突然聞いた。
「罪悪です。たしかに」と答えた時の先生の語気は前と同じように強かった。
「なぜですか」
「なぜだか今に解ります。今にじゃない、もう解っているはずです。あなたの心はとっくの昔からすでに恋で動いているじゃありませんか」
私は一応自分の胸の中を調べて見た。けれどもそこは案外に空虚であった。思いあたるようなものは何にもなかった。
「私の胸の中にこれという目的物は一つもありません。私は先生に何も隠してはいないつもりです」
「目的物がないから動くのです。あれば落ち付けるだろうと思って動きたくなるのです」
「今それほど動いちゃいません」
「あなたは物足りない結果私の所に動いて来たじゃありませんか」
「それはそうかも知れません。しかしそれは恋とは違います」
「恋に上《のぼ》る楷段《かいだん》なんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たのです」
「私には二つのものが全く性質を異《こと》にしているように思われます」
「いや同じです。私は男としてどうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです。それから、ある特別の事情があって、なおさらあなたに満足を与えられないでいるのです。私は実際お気の毒に思っています。あなたが私からよそへ動いて行くのは仕方がない。私はむしろそれを希望しているのです。しかし……」
私は変に悲しくなった。
「私が先生から離れて行くようにお思いになれば仕方がありませんが、私にそんな気の起った事はまだありません」
先生は私の言葉に耳を貸さなかった。
「しかし気を付けないといけない。恋は罪悪なんだから。私の所では満足が得られない代りに危険もないが、――君、黒い長い髪で縛られた時の心持を知っていますか」
私は想像で知っていた。しかし事実としては知らなかった。いずれにしても先生のいう罪悪という意味は朦朧《もうろう》としてよく解《わか》らなかった。その上私は少し不愉快になった。
「先生、罪悪という意味をもっと判然《はっきり》いって聞かして下さい。それでなければこの問題をここで切り上げて下さい。私自身に罪悪という意味が判然解るまで」
「悪い事をした。私はあなたに真実《まこと》を話している気でいた。ところが実際は、あなたを焦慮《じら》していたのだ。私は悪い事をした」
先生と私とは博物館の裏から鶯渓《うぐいすだに》の方角に静かな歩調で歩いて行った。垣の隙間《すきま》から広い庭の一部に茂る熊笹《くまざさ》が幽邃《ゆうすい》に見えた。
「君は私がなぜ毎月《まいげつ》雑司ヶ谷《ぞうしがや》の墓地に埋《うま》っている友人の墓へ参るのか知っていますか」
先生のこの問いは全く突然であった。しかも先生は私がこの問いに対して答えられないという事もよく承知していた。私はしばらく返事をしなかった。すると先生は始めて気が付いたようにこういった。
「また悪い事をいった。焦慮《じら》せるのが悪いと思って、説明しようとすると、その説明がまたあなたを焦慮せるような結果になる。どうも仕方がない。この問題はこれで止《や》めましょう。とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ」
私には先生の話がますます解《わか》らなくなった。しかし先生はそれぎり恋を口にしなかった。
「恋は罪悪ですか」と私《わたくし》がその時突然聞いた。
「罪悪です。たしかに」と答えた時の先生の語気は前と同じように強かった。
「なぜですか」
「なぜだか今に解ります。今にじゃない、もう解っているはずです。あなたの心はとっくの昔からすでに恋で動いているじゃありませんか」
私は一応自分の胸の中を調べて見た。けれどもそこは案外に空虚であった。思いあたるようなものは何にもなかった。
「私の胸の中にこれという目的物は一つもありません。私は先生に何も隠してはいないつもりです」
「目的物がないから動くのです。あれば落ち付けるだろうと思って動きたくなるのです」
「今それほど動いちゃいません」
「あなたは物足りない結果私の所に動いて来たじゃありませんか」
「それはそうかも知れません。しかしそれは恋とは違います」
「恋に上《のぼ》る楷段《かいだん》なんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たのです」
「私には二つのものが全く性質を異《こと》にしているように思われます」
「いや同じです。私は男としてどうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです。それから、ある特別の事情があって、なおさらあなたに満足を与えられないでいるのです。私は実際お気の毒に思っています。あなたが私からよそへ動いて行くのは仕方がない。私はむしろそれを希望しているのです。しかし……」
私は変に悲しくなった。
「私が先生から離れて行くようにお思いになれば仕方がありませんが、私にそんな気の起った事はまだありません」
先生は私の言葉に耳を貸さなかった。
「しかし気を付けないといけない。恋は罪悪なんだから。私の所では満足が得られない代りに危険もないが、――君、黒い長い髪で縛られた時の心持を知っていますか」
私は想像で知っていた。しかし事実としては知らなかった。いずれにしても先生のいう罪悪という意味は朦朧《もうろう》としてよく解《わか》らなかった。その上私は少し不愉快になった。
「先生、罪悪という意味をもっと判然《はっきり》いって聞かして下さい。それでなければこの問題をここで切り上げて下さい。私自身に罪悪という意味が判然解るまで」
「悪い事をした。私はあなたに真実《まこと》を話している気でいた。ところが実際は、あなたを焦慮《じら》していたのだ。私は悪い事をした」
先生と私とは博物館の裏から鶯渓《うぐいすだに》の方角に静かな歩調で歩いて行った。垣の隙間《すきま》から広い庭の一部に茂る熊笹《くまざさ》が幽邃《ゆうすい》に見えた。
「君は私がなぜ毎月《まいげつ》雑司ヶ谷《ぞうしがや》の墓地に埋《うま》っている友人の墓へ参るのか知っていますか」
先生のこの問いは全く突然であった。しかも先生は私がこの問いに対して答えられないという事もよく承知していた。私はしばらく返事をしなかった。すると先生は始めて気が付いたようにこういった。
「また悪い事をいった。焦慮《じら》せるのが悪いと思って、説明しようとすると、その説明がまたあなたを焦慮せるような結果になる。どうも仕方がない。この問題はこれで止《や》めましょう。とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ」
私には先生の話がますます解《わか》らなくなった。しかし先生はそれぎり恋を口にしなかった。
十四
年の若い私《わたくし》はややともすると一図《いちず》になりやすかった。少なくとも先生の眼にはそう映っていたらしい。私には学校の講義よりも先生の談話の方が有益なのであった。教授の意見よりも先生の思想の方が有難いのであった。とどの詰まりをいえば、教壇に立って私を指導してくれる偉い人々よりもただ独《ひと》りを守って多くを語らない先生の方が偉く見えたのであった。
「あんまり逆上《のぼせ》ちゃいけません」と先生がいった。
「覚《さ》めた結果としてそう思うんです」と答えた時の私には充分の自信があった。その自信を先生は肯《うけ》がってくれなかった。
「あなたは熱に浮かされているのです。熱がさめると厭《いや》になります。私は今のあなたからそれほどに思われるのを、苦しく感じています。しかしこれから先のあなたに起るべき変化を予想して見ると、なお苦しくなります」
「私はそれほど軽薄に思われているんですか。それほど不信用なんですか」
「私はお気の毒に思うのです」
「気の毒だが信用されないとおっしゃるんですか」
先生は迷惑そうに庭の方を向いた。その庭に、この間まで重そうな赤い強い色をぽたぽた点じていた椿《つばき》の花はもう一つも見えなかった。先生は座敷からこの椿の花をよく眺《なが》める癖があった。
「信用しないって、特にあなたを信用しないんじゃない。人間全体を信用しないんです」
その時|生垣《いけがき》の向うで金魚売りらしい声がした。その外《ほか》には何の聞こえるものもなかった。大通りから二|丁《ちょう》も深く折れ込んだ小路《こうじ》は存外《ぞんがい》静かであった。家《うち》の中はいつもの通りひっそりしていた。私は次の間《ま》に奥さんのいる事を知っていた。黙って針仕事か何かしている奥さんの耳に私の話し声が聞こえるという事も知っていた。しかし私は全くそれを忘れてしまった。
「じゃ奥さんも信用なさらないんですか」と先生に聞いた。
先生は少し不安な顔をした。そうして直接の答えを避けた。
「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないようになっているのです。自分を呪《のろ》うより外《ほか》に仕方がないのです」
「そうむずかしく考えれば、誰だって確かなものはないでしょう」
「いや考えたんじゃない。やったんです。やった後で驚いたんです。そうして非常に怖《こわ》くなったんです」
私はもう少し先まで同じ道を辿《たど》って行きたかった。すると襖《ふすま》の陰で「あなた、あなた」という奥さんの声が二度聞こえた。先生は二度目に「何だい」といった。奥さんは「ちょっと」と先生を次の間《ま》へ呼んだ。二人の間にどんな用事が起ったのか、私には解《わか》らなかった。それを想像する余裕を与えないほど早く先生はまた座敷へ帰って来た。
「とにかくあまり私を信用してはいけませんよ。今に後悔するから。そうして自分が欺《あざむ》かれた返報に、残酷な復讐《ふくしゅう》をするようになるものだから」
「そりゃどういう意味ですか」
「かつてはその人の膝《ひざ》の前に跪《ひざまず》いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載《の》せさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥《しりぞ》けたいと思うのです。私は今より一層|淋《さび》しい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己《おの》れとに充《み》ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」
私はこういう覚悟をもっている先生に対して、いうべき言葉を知らなかった。
「あんまり逆上《のぼせ》ちゃいけません」と先生がいった。
「覚《さ》めた結果としてそう思うんです」と答えた時の私には充分の自信があった。その自信を先生は肯《うけ》がってくれなかった。
「あなたは熱に浮かされているのです。熱がさめると厭《いや》になります。私は今のあなたからそれほどに思われるのを、苦しく感じています。しかしこれから先のあなたに起るべき変化を予想して見ると、なお苦しくなります」
「私はそれほど軽薄に思われているんですか。それほど不信用なんですか」
「私はお気の毒に思うのです」
「気の毒だが信用されないとおっしゃるんですか」
先生は迷惑そうに庭の方を向いた。その庭に、この間まで重そうな赤い強い色をぽたぽた点じていた椿《つばき》の花はもう一つも見えなかった。先生は座敷からこの椿の花をよく眺《なが》める癖があった。
「信用しないって、特にあなたを信用しないんじゃない。人間全体を信用しないんです」
その時|生垣《いけがき》の向うで金魚売りらしい声がした。その外《ほか》には何の聞こえるものもなかった。大通りから二|丁《ちょう》も深く折れ込んだ小路《こうじ》は存外《ぞんがい》静かであった。家《うち》の中はいつもの通りひっそりしていた。私は次の間《ま》に奥さんのいる事を知っていた。黙って針仕事か何かしている奥さんの耳に私の話し声が聞こえるという事も知っていた。しかし私は全くそれを忘れてしまった。
「じゃ奥さんも信用なさらないんですか」と先生に聞いた。
先生は少し不安な顔をした。そうして直接の答えを避けた。
「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないようになっているのです。自分を呪《のろ》うより外《ほか》に仕方がないのです」
「そうむずかしく考えれば、誰だって確かなものはないでしょう」
「いや考えたんじゃない。やったんです。やった後で驚いたんです。そうして非常に怖《こわ》くなったんです」
私はもう少し先まで同じ道を辿《たど》って行きたかった。すると襖《ふすま》の陰で「あなた、あなた」という奥さんの声が二度聞こえた。先生は二度目に「何だい」といった。奥さんは「ちょっと」と先生を次の間《ま》へ呼んだ。二人の間にどんな用事が起ったのか、私には解《わか》らなかった。それを想像する余裕を与えないほど早く先生はまた座敷へ帰って来た。
「とにかくあまり私を信用してはいけませんよ。今に後悔するから。そうして自分が欺《あざむ》かれた返報に、残酷な復讐《ふくしゅう》をするようになるものだから」
「そりゃどういう意味ですか」
「かつてはその人の膝《ひざ》の前に跪《ひざまず》いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載《の》せさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥《しりぞ》けたいと思うのです。私は今より一層|淋《さび》しい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己《おの》れとに充《み》ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」
私はこういう覚悟をもっている先生に対して、いうべき言葉を知らなかった。
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